一日目 咆哮




 バステ監獄は、山ほどもある巨大な要塞だった。そう遠くない先、ブリタニア全土を巻き込むとされる聖戦に、備えるために建造された。日暮れ間際、そのバステの輪郭を染める太陽の名残に包まれて、ジェリコは馬を下りた。交代したばかりの宿直(とのい)の兵に取次ぎを頼むと、ほとんど身元を検められることもなく中へ通される。携えた辞令の威光を、ジェリコはしみじみと実感した。
「遠路はるばるよくぞ参られた」
 バステの管理を任されている騎士団長は、鷹揚にジェリコを歓迎した。ジェリコを女と侮る気配はなく、それどころか、もみ手でもせんばかりにへりくだってくる。おそらく地方任務が長いのだろう。騎士団長には聖騎士見習いが聖騎士と同等に見えるのだ。見習いが長い者は、王都では聖騎士のなりそこねと揶揄されていることを彼は知らなかった。まるで一人前のように扱われたことが、ジェリコには誇らしかった。
 兄に歯向かうときとは違う形で、気が大きくなったジェリコは男物の鎧の胸をそらせた。
「こちらには<不気味な牙>(ウィアードファング)がいらっしゃると聞いた。お目通り願いたい」
 ジェリコが口にしたのは、紅玉(ルビー)の聖騎士四人で構成されたチームの名だった。騎士団長がバステの責任者というのは形式で、監獄要塞の真の支配者は彼らだった。
 国家プロジェクトで築造された要塞を任されている、<不気味な牙>(ウィアードファング)。彼らに認められれば、兄のそばにいるよりずっと早く聖騎士への道が開ける。自分を呼び戻そうとするグスタフの顔が、ジェリコの脳裏をちらついていた。騎士団長の態度から、この地にいる聖騎士や聖騎士見習いは少ない。ジェリコは、一刻も早く、彼らに自分の名と顔を売り込んでおきたかった。
「確かに<不気味な牙>(ウィアードファング)はいらっしゃるが……」
 ジェリコの焦燥に反して、騎士団長は首を振った。この時間、<不気味な牙>(ウィアードファング)は多忙で面会は難しいというのが彼の返事だった。
「長旅でさぞやお疲れだろう。明日の朝一番にはかならずご紹介いたすゆえ、今宵はゆっくりと休まれよ」
 ジェリコは不満だった。腰の重い騎士団長にも、兄の顔色が気になる自分自身にもだ。はるばるこのバステまで逃れてきたのに、他ならぬ自分が兄の動向に怯えていては意味がない。この地に留まるため、<不気味な牙>(ウィアードファング)の、兄と対等、もしくはそれ以上の位にある聖騎士の後ろ盾を、ジェリコは強く欲していた。
「早く、ここにも慣れてもらわねばなりませんしな……」
 ジェリコの思惑にどこ吹く風の騎士団長は呟く。特に変わったところのないセリフに込められたものに、ジェリコが気づいたのは騎士団長の部屋を出た後だった。
「妙だな」
 兵士にバステの簡単な案内を受けている間、ジェリコは首をかしげていた。廊下には狐火めいた灯火が点々と連なり、どこも気味の悪い薄暗さが澱のように沈んでいた。陰鬱な澱は、廊下に限らず、バステ監獄のそこここに漂っている。
 バステは、リオネスでも最新の監獄要塞だった。完成はおよそ5年前。カップケーキを連ねたような愛らしい見てくれに反して、ここに収容されたものは二度と生きて日の目を見ることはできない。たった5年で築いたこの評価に、ネズミすら息を殺していた。
「それにしても変じゃないか。獄につながれた虜囚はともかく、兵士たちまで怯えきっている有様はなんなんだ」
 バステの日は完全に暮れ、宵というにも遅すぎる時間帯だった。まさか夜陰にうごめく獣が恐ろしいわけでもあるまいと、ジェリコが自分にあてがわれた部屋のドアを開けたとき、それは轟いた。
「え……」
 初めは遠雷かと思えた音は、またたくまにジェリコの足音を震えさせる。音ではなく、声だと気づいたのは、天地四方の壁が揺るぎだした時だった。声は遠い場所からのものではなかった。まさに今、ジェリコの立つその場所から響いていた。バステそのものが一匹の巨大な獣と化し、唸り声を上げているかのような大絶叫だった。
「な、なんだ……!」
 ジェリコはとっさに部屋から離れ、元来た道を駆け戻った。牢の中の囚人たちも、すれ違う兵士たちも、誰もが響き渡る咆哮に恐れおののいていた。ある者は耳を塞ぎ、ある者は頭を抱え、またある者は部屋の隅に身を縮めて、世にも恐ろしい叫び声に耐えていた。
「これが、この要塞に漂う恐怖の正体か!」
 騎士団長はジェリコに、「これ」に慣れろと忠告していたのだ。
「だとしたら、この声はなんなんだ」
 バステの咆哮は続いていた。一度途切れても、すぐにまた声が轟く。確かに尋常ではないが、逃げだそうとする兵やパニックに陥る虜囚は目立たなかった。彼らは知っているのだ。この声が直接彼らに害を及ぼさないことを。そして、耐えていればいずれは収まるものだということを。怯えながら、しかし彼らは慣れていた。
「つまり、この声は外部からの攻撃ではないということか……」
 ジェリコは兄に反発する以外では、良くも悪くも常識的なものの考え方をする人間だった。絵本に出てくる妖精はいればいいなと思うけれど、本当のところを尋ねられれば「妖精なんていない」と答える。幽霊や化け物の類も同じだ。幼い頃兄に読み聞かせてもらった数々のおとぎ話。そこに登場する異形のモノたちの、モデルは確かにこの世にいるかもしれない。だが、それらが実在するかと言われればジェリコは首をかしげてきた。
 その常識的な発想から、ジェリコはバステを覆う異様な空気を<不気味な牙>(ウィアードファング)への畏怖だと捕らえていた。その努力も、突如現れた咆哮に覆された。雄たけびはまだ終わらない。
「どこだ。どこから聞こえてくる?」
 兵士たちに尋ねても、彼らは震えるばかりでまともに答えられなかった。彼らには、恐怖に耐えるだけで精一杯なのだ。ジェリコだって怖い。だがジェリコは、兵たちと肩を寄せ合うことはしなかった。理不尽に自分を押さえつける何かに、ジェリコはむしろ怒りと好奇心を湧き上がらせていた。彼女に流れる、曽祖母の血がなせる業だった。
 怖いのはわからないからだ。ジェリコは揺れるバステでひとり立っていた。この雄たけびの正体をつきとめてやると、息巻いたジェリコは監獄を歩き回った。勇ましいその姿は、在りし日の彼女の曾祖母そのものだった。
「下、じゃない。……となると上か」
 初めはバステ全体が震えて音を立てているようだったそれも、よくよく聞いてみれば遠い近いがある。壁や床に耳を澄ませながら、ジェリコは徐々に、声にたどり着こうとしていた。



 バステを構成するいくつかのカップケーキ、その最も高い位置にあるカップケーキに、ひとつだけ用意された独房の前にジェリコはいた。
「ここだ、間違いない」
 第一声に度肝を抜かされてから一刻ほど、咆哮はまだ止んでいなかった。鼓膜を破りかねない大音声にも耳は慣れかけていた。それとも彼女の前にそびえる鉄の扉が、いくばくなりとも大音響を吸い取っているのだろうか。
 鉄の扉は、ジェリコの生家の蔵を思い出させた。そこには、名門貴族が所有する貴重な品々が納めてあった。ガラクタ同然の田舎細工もあったが、ジェリコの家を名門にした祖父の母、つまりはジェリコの曽祖母ゆかりの品であるからと処分されることはなかった。そんな家の歴史がつまった蔵の鍵は、歴代の当主しか持つことが出来ない決まりだった。蔵の鍵は、女であり、兄のいるジェリコが、絶対に触れてはいけないもののひとつだった。
 そんな憧れと憎しみをもって見上げたはずの蔵の扉も、この独房と比べれば掘っ立て小屋の入り口に思える。独房の扉は巨大で、外から見ただけでも、その常識はずれな分厚さを感じさせた。ジェリコの家の蔵は、家にとって貴重なものを納めるためにあった。しかし、この独房に納められているものはそれとは違う、はるかに危険で強大なものなのだ。
 ジェリコは扉の前に立ち尽くしていた。鍵はまずかかっていると見ていい。声の主を見定めることは難しかった。果たしてこの扉の奥にいるのは、人か、それとも獣か。雄たけびが続く中、このままおめおめと引き下がる決心がジェリコはどうしてもつけられなかった。
 呼びかけてみるか。応えがあるかもしれない。戸惑いながらも、まずはノックと拳をかかげてしまうのは、ジェリコの育ちのよさの現れだった。
「そこで何をしている?」
 ジェリコの拳が扉に触れる手前で、甲冑の音ともに声は横から投げかけられた。目の前に意識を集中していたジェリコは、新たに現れた声にぎょっとして振り返る。視線の先の人物に、ジェリコは一層目をむいた。
「あ、あなたは……!」
<不気味な牙>(ウィアードファング)がひとり、聖騎士ジュド。ここは許可なくば立ち入りは赦されん。何者だ?」
 <不気味な牙>(ウィアードファング)の名に、ジェリコは瞬時に居住まいを正した。
「本日付でバステに赴任しました、聖騎士見習いのジェリコです!」
「ジェリコ……、あぁ、あの紅玉(ルビー)の」
 ジュドの反応に、ジェリコの期待は一気に萎えた。紅玉(ルビー)の聖騎士グスタフの妹。その言葉は、聖騎士見習いの訓練場に限らず、聖騎士のいるところならどこででもジェリコに投げつけられてきた。ジェリコはグスタフの妹それ以上でも以下でもなかった。グスタフの妹であることがジェリコを形容する全てだった。あの 紅玉(ルビー)の、あの 「氷牙」(アイスファング)の、そう声をかけられるたびに、ジェリコは自分が透明になって、消えてなくなっていく気がした。同じ思いを遠く離れたバステでも噛みしめて、ジェリコは拳を握った。
「話は聞いている。しかし、初日から規律違反とは感心できんな」
 また、野太い悲鳴が上がった。礼を失すると知りながら、ジェリコは視線をジュドからはずし、独房に向けずにはいられない。
「気になるのか」
「声を追っていたら、ここに。立ち入り禁止区域とは知りませんでした」
「ほう。ここまで自力でたどり着いたか」
 ジェリコの行動に、ジュドは思うところがあったようだ。それが好意か悪意か、気になるジェリコの意識はジュドに引き戻されるかに見えた。しかし、再び声量を増した雄々しい悲鳴が、やはりジェリコの気持ちを強く惹きよせる。
「ここには5年前から、ひとりの男が投獄されている」
 いつの間にか、ジェリコの背後にたったジュドが独房を指した。たったひとりのための独房。その独房に近寄らせないために、要塞の一画がまるまる立ち入り禁止区域になっていた。
「一体、誰なのですか」
「<七つの大罪>と言えば、お前も知っているだろう。この扉の向こうにいるのは、そのひとり、<強欲の罪>(フォックス・シン)と呼ばれた男だ」
「な、<七つの大罪>……!」
 その名をリオネスで知らぬものはいなかった。この国きっての大罪人で構成された、ブリタニア最強にして最悪の聖騎士団。その結成と活躍は、兄が聖騎士になるずっと以前の話だった。
「彼らは指名手配中のはず」
「そう。10年前、彼らは王国転覆をたくらみ国を追われた。だからこそ<強欲の罪>(フォックス・シン)ここにいるのだ。奴は5年前に私が捕らえた。このバステ監獄の囚人第一号と言うわけだ」
<強欲の罪>(フォックス・シン)を捕らえたですって……!」
 ジェリコの意識はそこではじめて、独房の中より強くジュドに向けられた。伝説と呼ばれた大罪人を捕縛したのが真実なら、<不気味な牙>(ウィアードファング)の実力は本物に違いなかった。
 ジェリコのあけすけな敬意の眼差しに、まんざらでもないジュドはジェリコの肩に手を置いた。鎧に覆われた手は重たく、硬かった。
お前の兄(グスタフ)からは、充分に目をかけてくれと頼まれている。聖騎士見習いだそうだな」
「はい! いずれは兄を超え、ジュド様のようになりたいと」
「たったひとりでここにたどり着いた度胸は買おう。どうだ。せっかくここまで来たのだ。伝説の大罪人の顔を見てみたくはないか?」
「フ、<強欲の罪>(フォックス・シン)の顔を……?」
 ジェリコの返事を待たず、ジュドは独房の扉に手をかけた。施錠されているとばかり思っていた扉は、軋みを立てて開かれる。8インチ近い厚みの鉄の扉は加重のためか、かなり大きく不快な音を立てた。しかし、その音は解き放たれた大罪人の唸り声にたちまちかき消されてしまった。
「奴は捕らえられて以来、拷問を受けている。先日、また新しい拷問を始めたところでな、いつになく効いているようだ。無粋な男の悲鳴も、あの伝説の成れの果てと思えば一興だろう」
 一足先に、独房に足を踏みいえれたジュドの先は闇だった。闇と光の狭間で、振り返ったジュドがジェリコを手招く。誘うように、生臭い空気がジェリコの頬を撫でた。つんと、鼻の奥を刺すのは血の匂いだった。
「さぁ、来い。『本物』を見せてやる」
 本物。本当の、生きた伝説がジュドが背負う闇の向こうにいた。獣の雄たけびは、今も続いている。
 見たい。
 好奇心の塊だったと言う、ジェリコの曽祖母。彼女の血が、ジェリコの中で騒ぎ始めた。



 独房には先客がいた。<強欲の罪>(フォックス・シン)でないことは、ジュドとよく似た鎧姿でわかった。彫像の顔を象った面と、携えた錫杖が目立つ聖騎士は、<不気味な牙>(ウィアードファング)のルインと名乗った。
「ルインは幻術を得意とする」
 ジュドはルインにジェリコを紹介した。部屋の奥からは、怒号のような悲鳴が続いていた。血なまぐささも、独房の内部では一層強くなった。だがジュドもルインもまるで意に介していない。少なくとも表情の見えない彼らから、ジェリコは何も感じ取ることが出来なかった。
「奴は今、ルインの幻術の中にいる。その状態で、睡魔を司る聖騎士によって眠らされると、どうなると思う?」
 ジェリコは首を振った。入り口からのわずかな光がたよりの薄暗がりで、茨の兜で顔を覆いながら、それでもジュドはジェリコの返事を正確に受け取った。
「幻は悪夢となる」
<強欲の罪>(フォックス・シン)はうなされているのですか」
 バステそのものを揺るがすような絶叫は、悪夢にうなされた人間のうわ言だったということか。
「奴は我々の会話も聞こえん。だがこれからは違う。私がいいと言うまで、余計な口は聞くな。……ルイン」
 ジュドの呼び声に応えて、ルインは錫杖を一振りした。杖についた鈴がリリーンと高い音を立てる。すると、いつ果てるとも知らなかった雄たけびがぴたりと止んだ。ルインの鈴の音で、睡魔の魔力も解ける仕組みのようだった。
「お目覚めかな、<強欲の罪>(フォックス・シン)バン」
 前触れなく、ジェリコはジュドにぐっと背中を押された。悲鳴を堪え、つんのめるようにして2、3歩前に出る。闇はひときわ濃くなったが、慣れ始めていた目は部屋の奥にいる人影を認めた。背の高い、細身の男。色素の薄い髪は伸び放題で、顔は見えない。
「気分はどうだ、<強欲の罪>(フォックス・シン)バン」
 後ろからジュドの声が投げかけられる。<強欲の罪>(フォックス・シン)バンと呼称を繰り返すのは、ジェリコに目の前の男が誰かを教えるためだ。
 伝説の<七つの大罪>のひとりがすぐ近くにいる。その事実に、ジェリコの背筋に悪寒が走った。殺される。真っ先に頭をよぎったのは、その恐怖だ。伝説の大罪人に、聖騎士見習いを手にかけることは造作もないだろう。足元から血の気が抜け落ちていく不安の中、それでも大罪人の姿を見極めようするのは曽祖母の血がなせる業だった。
 闇に目を凝らせているうちに、ジェリコは<強欲の罪>(フォックス・シン)の肩が上下に揺れていることに気づいた。耳に届く呼吸も荒かった。今の今まで、男は悪夢に絶叫していたことをジェリコは思い出した。あれだけ長い間叫び続ければ、体力を消耗するのも当たり前だ。ぐったりと首を折った無様な姿を前に、ジェリコに冷静さが戻ってきた。
 荒い呼吸を繰り返す大罪人に、ジェリコが次に感じたのは落胆だった。所詮伝説とは口伝えの誇張に過ぎず、実物は悪夢ひとつで疲労困憊するただの人間だった。そうとわかればこわばっていた四肢にも力が戻る。
 手足をしゃんと伸ばし、ジェリコは胸を張った。とたん、何かがジェリコを貫いた。全身に水を浴びたような冷たさを感じた。
「ひっ……!」
 気づけばジェリコは、身をよじっていた。<強欲の罪>(フォックス・シン)から逃げようとしていた。バランスが崩れて、ジェリコは尻餅をついた。全身が震え、汗が滝のように流れ落ちた。
「あ、ああ……」
 一瞬、ジェリコは何が起こったのかわからなかった。ただ、恐ろしかった。全身が震えているのに、体の芯は熱かった。紅い光に目を焼かれた気がしたのだと、気づいたのはジュドの声がしてからだった。
「余計な口は聞くなと言った筈だ」
 背後についた手の近くに、ジュドがいた。彼を見上げて助けを乞いたいのに体が動かない。ジェリコはカタカタと震え続けた。
 ジェリコが射抜かれたのは、<強欲の罪>(フォックス・シン)の視線だった。真っ赤なルビーのような眼が、伸びきった髪の隙間からジェリコを見ていた。紅い光に、ジェリコは震えながら胸が熱いと思った。
 男はジェリコの腕より太い鉄杭で、四肢を壁に打ち付けられていた。腕に二本、足に二本、手の甲、足の甲まで打ち据えた念入りぶりに、男は立つことも座ることもできずに壁に磔にされていた。
「……だ」
 男が何か言った。唯一、自由な頭が揺れている。
「口を割る気になったか。<強欲の(フォック)
「もっとだ」
 ジュドの言葉を飲み込むほどの、低い声が地を這う。うっそりと、男は顔を上げた。白く長い髪と髭が流れ、ジェリコは男の口が裂けるのを見た。
「もっと来い!」
 三日月の形に切り裂いた口から、長い舌を出して男は笑った。





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