三日目 悪夢




 バンは痛みを求めていた。
 バンが飲んだ生命(いのち)の泉は、バンを死ねない体にした。彼の肉体についた傷は、たとえそれが致命傷であろうと瞬く間に回復した。すさまじい再生能力は、死の恐怖すら克服させた。
 幸福に気づくためには不幸が必要だ。愛を知るために憎しみは不可欠だ。死が恐怖でなくなった男は、どうやって生を感じることができるのだろう。食べることも、眠ることも、他人と肌を重ねることも、死を失ったバンには無意味だった。
 バンが生きている実感を得られるものがあるとすれば、それは痛みだった。苦痛だった。女の腕ほどの太い鉄杭に打たれることを、バンは歓迎した。よくやすりをかけられ、尖った杭の先端が皮膚を貫き肉を裂いたとき、バンは波のごとく広がる痛みに自分の肉体の隅々にやどる生命を感じた。骨が砕かれ、杭が貫通した瞬間、痛みはバンの脳天を突き抜ける。その感覚は、まるで自慰に果てたときのエクスタシーだ。全身に伝わるものが痛みか快楽か、ただそれだけの違いだった。
 絶頂が去っても断続する痛みは、バンに時間を観念を蘇らせた。打ちつけられた箇所から、ドクン、ドクン、と響く痛みの波が、バンの鼓動と寄り添う。滴る血の数と、迫る痛みの波をバンは数えた。
「1、2、3、4……」
 その数がバンの時間となる。怪我や病気で死ぬことも、寿命をまっとうすることも叶わなくなったバンにとって、彼の肉体の経過を知るにはそうするしかなかった。
「827、828、829、830……」
 カウントの間にも、彼の中に流れる生命(いのち)の泉は、妖精族の秘宝たる力を発揮し、宿主の肉体を蘇らせ続けた。血は止まり、断ち切られた骨や肉は元の形に繋ぎなおされ、皮膚は傷口をふさごうとした。杭の周りで再生していく自身の肉体を眺めながら、バンはいつしか体と杭が一体になってしまうことを想像した。しかし、バンの予想に反して、泉はかたくなにバンの肉体の完全さにこだわった。どんな異物も、バンの肉体にとりつくことを赦さなかった。
 泉がバンの体を蘇らせようとするたびに、傷口もまた新しくなり、新しい血が、新しい痛みが、バンの内側で生まれては消えていった。
「46645、46646、46647、46648……」
 バンのカウントは止まらない。彼がおとなしく磔にされている限り、たとえ曲げた鉄杭に口を塞がれようと、夜ごと、絶叫せずにはいられない悪夢を見せ付けられようと、彼は自分の生を実感することができた。それが、バンが5年近くバステに留まる理由のすべてだった。
「喜べ、<強欲の罪>(フォックス・シン)バン」
 そんな獄中暮らしに、変化が訪れた。拷問メニューの変更は変化の内に含まれない。だがその拷問の、立会人の顔ぶれが二日前に変わった。かと思えば、昨日になるとバンの独房にメイドと思しき若い女が派遣されている。そして今日、バンの口枷が外された。これまでもジュドの気まぐれで外されることはあったが、三日続いた変化に、バンはジュドの気まぐれ以上の何かを感じ取っていた。
「その女は、お前つきのメイドだ」
 ジュドはそう言って、女をひとり残して独房を後にした。問題のメイドは、先ほどから黙々とバンの体を濡れた布でぬぐっていた。
 拷問中の大罪人に、世話係。どう考えても理屈が通らない。だがバンは好きにさせた。肌を撫でる冷たさは心地よく、ジュドの思惑などどうでもよくなった。
 バンの腕や顔をぬぐっているジェリコの心中は荒れ模様だった。自分は聖騎士見習いとしてバステに着任し、いつか兄をしのぐ聖騎士になるために功を立てようとしていたのに、どうしてメイドに身をやつして罪人の世話を任されているのか。しかし、憤懣の元をただせばジェリコの自業自得だった。
 ゆうべ、無断で<強欲の罪>(フォックス・シン)の独房に忍び込んだジェリコを、待ち受けていたのはジュドだった。ジュドはジェリコの女のなりを一瞥するなり、一計を思いついた。彼は、二度目の規律違反を責める代わりに、ジェリコにバン専属のメイドとなることを命令した。
「20年前、妖精王の森と呼ばれるブリタニア北方の巨大な森が、一夜にして大焼失した。その一件にあの男(フォックス・シン)は関わっている」
 ジュドは、その「大焼失」の詳細について、バンの口を割らせたいらしかった。
「女のほうが、奴も油断するやもしれんな」
 ジュドの言葉に、ジェリコはバンの笑みを思い出した。ほんの一瞬であったけれど、確かに<強欲の罪>(フォックス・シン)はジェリコを見て笑ったのだ。ジュドの狙いが正しければ、伝説と呼ばれた男も、女の前では見張りの兵と大差なかった。
「うまくやれば、上にも口ぞえしてやろう。お前に魔力が発現した暁には、蒼玉(サファイア)への昇格も早いだろうな」
 蒼玉(サファイア)の聖騎士と言えば紅玉(ルビー)より上の階級だ。兄を超えられるかもしれない期待は、ジェリコを頷かせるには充分だった。
 独房に入れられるなり、ジェリコはまず床に水をまいた。ゆうべ、桶からこぼれた飲み水だと思った床の水濡れは、水ではなく悪夢にもがく<強欲の罪>(フォックス・シン)の手足から滴り落ちた血だとわかったからだ。水にさらわれた血がゆっくりと排水溝に向かって流れ出すと、独房を満たしていた鉄臭さが少しやわらぐ。ジェリコは別の桶の水から布を引き上げて、磔にされた男の体をぬぐい始めた。
 男の体の世話をさせられる屈辱に、ジェリコは耐えた。腕に顔、首周りと当たりさわりのない部分からはじめたジェリコの手は、バンの胸をぬぐい終わった。その間、口枷を外されたバンは何も言わず、ジェリコのされるがままになっていた。瞼をぴったりとくっつけたまま、彼女を一瞥さえしなかった。ただ時おり、鼻から吐き出される深い息が、彼が心地よさを感じている証拠だった。
 存在を無視されながら、奉仕だけは受け取られている。ジェリコは自分が身も心もメイドになった気がしてみじめだった。彼女はこれまでの人生で、人に使役させられた経験がなかった。生家ではもちろん、聖騎士見習いの訓練での命令でさえ、魔力を磨くための鍛錬の一環と受け取っていた。それに比べて、今彼女がやらされていることは彼女の尊厳を踏みつけにする。しかも隷属している相手は罪を背負った虜囚であり、本来ならば彼女のはるか下、社会の中で最も下に置かれるべき人間だった。
 このときジェリコの傷心は、自由な田舎暮らしから一変して王都での窮屈な日々の中で、あまつさえ姑に個性や自我を押さえ込まれていた曽祖母と同じものだった。しかしジェリコはそんなことを知る由もなかった。
 どうして俺がこんなことを。口から出そうになる悪態を何度も飲み込んだ。そのたびに肌を拭く手つきが荒くなったけれど、磔にされた大罪人は文句を言わなかった。二人の間にあるのは、互いの息遣いだけだった。呼吸に合わせて、男の腹が上下する。5年にわたって体の自由を奪われているはずなのに、<強欲の罪>(フォックス・シン)の肉体にたるみはなかった。胸板は盛り上がり、腹は見事に六つに割れている。その左の傍らに、<強欲の罪>(フォックス・シン)の証たるキツネが刻まれていた。彼の左脇腹に住まう赤いキツネを目にするたびに、ジェリコは彼が本物だということを思い出した。捕らわれていても、女に対してはただの男にすぎなくても、伝説はまさに実在した。
 だからジェリコは、余計に戸惑っていた。キツネの刺青とともに、視界の隅でちらつく男の股間が膨らんでいる。話には聞いていても、実際に見るのは初めてな光景に、思わず手から布が滑り落ちた。
 体を清める手が止まったことに気づいた、<強欲の罪>(フォックス・シン)が瞼を開けた。
「ああ、悪ィ」
 声は角の取れた低いものだった。悪夢にうなされた雄たけびや、狂気に満ちた声しか知らなかったジェリコは、<強欲の罪>(フォックス・シン)の穏やかな声音に気を惹かれた。ジェリコに向けて初めて投げかけられた彼の声は、兄とは違うけれど、それはジェリコの好意を引き寄せるまろやかな響きを持っていた。その声のまま、<強欲の罪>(フォックス・シン)は笑う。
「男の生理ってやつだ。てめぇにどうこうして欲しいたぁ思わねぇよ。眠れば忘れる」
 この男にとって、バステでの眠りはイコール悪夢だ。夜ごと悲鳴を上げずにはいられない悪夢では、たしかに欲求不満も二の次になる。だがそうは言われても、現にこうして男の欲を見せ付けられれば、気にしないで置くわけには行かなかった。乱暴をされたらどうしよう。叫べばジュドが来てくれるだろうか。バンは手足を拘束されていて、だからこそジェリコがメイド姿で二人きりになっても安全だとされているのに、万一のことを考えるとジェリコの体は熱くなった。その熱がいつもの嫌悪とは違う気がして、ジェリコはなおさらうろたえた。
「マジで安心しろって。どうこうしてもらいてぇ奴は他にいんだから」
「恋人がいるの?」
 男言葉にしない冷静さは残っていたが、ジェリコの声はバンの言葉尻を噛んでいた。前のめりの反応に、バンは笑った。
「いちゃ、悪ぃかよ」
「何だか意外で。ごめんなさい。彼女は今どこに?」
「とっくの昔に死んじまったさ」
「……ごめんなさい」
 ジェリコの二度目の謝罪に、バンは軽く頭を振って笑みを大きくした。
「悪くねぇぜ、悪夢も。アイツに会える。百発百中だ」
「恋人に会えるのに、どうして毎晩叫んでるの?」
 通いのメイドが、夜ごとバステを揺るがす絶叫を知っていてはつじつまが合わない。そこをバンは問いただしてはこなかった。彼は薄く笑ったまま、ジェリコを見ていた。
「夢で、俺はアイツを殺してる」
 告白された夢の内容は、薄笑いとともにするには衝撃的すぎた。ジェリコは絶句した。とっさに、胸の前で握った手は、はからずも祈りの姿に似ていた。バンは、しかし気にも留めなかった。
「ゆうべは、この手でアイツの首を絞めてた。一昨日は崖から突き落としてた。一昨々日は後ろからエールの瓶で」
「もういい」
「刺して、殴って、毒もって、首を折って、喉潰して。毎晩毎晩、あの手この手で俺はアイツを殺してんだ。逃げようとしても、やめようとしても、アイツは必ず俺の手にかかって死ぬ。叫びたくもなんだろ? ジュドの野郎も良い趣味してやがるぜ。ったく、アイツのことどうやって調べたんだ? なぁ?」
 ジェリコは答えられなかった。答えを知っているからこそ、彼にそれを知らせるのは酷な気がした。
 バンの悪夢の正体は<不気味な牙>(ウィアードファング)ルインの幻術――――ではなかった。
「目覚めている人間と、眠っている人間とでは同じ幻術をかけるにも勝手が違う」
 そうジェリコに説明したのは、やはりジュドだった。彼によれば、ルインにバンの悪夢は操作できない。
「かつて<七つの大罪>には敵の精神に侵入し、自在に悪夢を見せる恐ろしい使い手がいたそうだ。生憎、ルインの幻術にはそこまでの力はない。また、その必要もない」
 顔の見えない鎧の奥で、ジュドが笑った気がした。<不気味な牙>(ウィアードファング)の筆頭は、ジェリコに向かって恐ろしい真実を口にした。
「悪夢を選ぶのは<強欲の罪>(フォックス・シン)自身よ。奴が『最も罪深く思っていること』。それこそが悪夢、ルインが奴に施した幻術の真の姿なのだ」
 バンの見ている悪夢は、かつて犯した彼の罪そのものだった。彼は、愛した女をその手にかけた。その罪を悔悟し、贖えるものなら贖いたいという彼の贖罪の念こそが、最高の悪夢への招待状だった。
「そろそろ、来たな」
 罪深い男が言った。すぐに彼の瞼が重くなり、白い頭がぐらぐらと揺れた出す。おそらく、睡魔を司る聖騎士の魔力が彼に及び始めているのだ。
「じゃーな、嬢ちゃん……気ィつけて帰……」
 労いの言葉を言い終えることなく、白い頭はカクンと落ちた。今宵もまた、叶わない願いが彼に夢を見せる。救いのない、極上の悪夢が始まろうとしていた。



 「<強欲の罪>(フォックス・シン)に口枷をしてやることはできませんか」
 独房を出たジェリコは、ジュドを捕まえてそう進言した。茨の兜の奥でジュドは鼻を鳴らした。嘲笑だとジェリコは感じた。
「あのままでは舌を噛み切ります。殺しては拷問の意味がない」
 あの男は弱っている。少なくともジェリコはそう思っていた。彼は昨日会ったばかりの名も知らないメイドに、夢の話を語った。悪夢を語ることは、彼の過去を語ることと等しかった。
 心細さに押しつぶされそうになるとき、人はよくしゃべる。蔵にひとり閉じ込められたジェリコが、寸暇も惜しんで泣き叫んでいたように。しゃべる気力さえ尽きたとき、彼は自ら命を絶とうとするだろう。それが今夜かもしれなかった。
「死こそ、あの男には無意味だ」
 無意味。ジュドの真意を察しかねてジェリコは食い下がった。
「あれだけの数の鉄杭に四肢を打たれて、生きているだけでも奇跡ではありませんか!」
「奴は死なん。いや、死ねないのだ。あの男は不死身(アンデッド)だ」
 <強欲の罪>(フォックス・シン)バンの異名、不死身(アンデッド)バンをジェリコは初めて知った。
「ま、まさかそんな人間いるはずが……!」
 否定しながら、ジェリコは納得する自分に気づいていた。5年間の長きに渡って、杭を打たれ、磔にされ、動くこともままならず拷問を受け、それでも生き続けている男の尋常ならざる生命力は、そうでもなければ説明がつかなかった。しかし、人を不死身にすることは可能なのか。妖精や幽霊を信じない、ジェリコの理性的な部分はいぶかしむことをやめなかった。
「真偽は定かではない。私自身懐疑的だ」
 ジェリコの疑惑に、ジュドは追従した。
「では口枷を」
「これまでも口枷は何度かはめてきた。多少の防音効果はあるのでな。だが、今は赦さん」
「なぜです」
「うわごとで何か口走るかもしれん。今は少しでも奴の口から情報が欲しい。今日は何か言ったか」
 ジュドの質問は、囚われの<強欲の罪>(フォックス・シン)のお膝元に、ジェリコが投じられた目的を思い出させる。ジュドの期待に答えるのなら、ジェリコはあの男がしゃべったことを一言一句逃すことなく報告すべきだった。それがジュドの求めに適うか否かを判断するのはジェリコではない。
 しかしジェリコは、<強欲の罪>(フォックス・シン)が恋人を殺す悪夢を見ていることをジュドの前で口にすることができなかった。ジュドが望んでいるのは、20年前大焼失したという妖精王の森の情報だった。そんな彼の要求に対して、死んだ恋人と言う非常にセンシティブな話を報告するのは場違いだった。妖精王の森と、バンの恋人とはまるで関係がないかもしれない。きっとそのはずだと、ジェリコは自分に言い聞かせた。
 情報を握りつぶす行為を、ジェリコが必死に正当化しようとしているさなかにもジュドの視線は彼女に突き刺さっていた。顔の見えない兜の奥で、ジュドが何を考えているかは皆目検討がつかなかった。そこへまた、バンの悲鳴がバステを揺らした。
 バンが意識を失ったときから、間もなく訪れると覚悟していた大音響に、しかしジェリコは耐え難く、口を曲げて拳を握り締めた。眉を顰めて目もかたく閉じた。ジュドが見ていることを、このときのジェリコは完全に失念していた。
「昨日の今日でもう情が移ったか。お前も女だな」
 国に仇なす大罪人の安否を気遣う矛盾、上官の命に反して彼の秘密を打ち明けられない矛盾、恋もしたことがないのに彼の慟哭に同調してしまう矛盾。複数のジレンマに囚われていたジェリコに、ジュドが投じた一石は重かった。女。ジェリコを性別だけでカテゴライズするその一言は、彼女の頭を一瞬で沸騰させた。
 ジェリコはジュドを睨み上げた。バンに「嬢ちゃん」と呼ばれるより、ずっと大きな屈辱の中で彼女は叫んでいた。
「妖精王の森の情報は、必ず俺が聞きだして見せます!」





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