エピローグ 復活




Jericho

 「殺してくれ」
 バンの心からの願いは、ジェリコの胸に大切にしまわれた。
 その翌日、バンはジェリコの力を借りることなく脱獄を果たした。<七つの大罪>団長の<憤怒の罪>(ドラゴン・シン)メリオダスと、彼に従う<嫉妬の罪>(サーペント・シン)ディアンヌ急襲の報せに、バステが騒然となっているさなかでのことだった。
「久々の散歩はいいねぇ」
 己の二本の足で立つバンを、ジェリコはそのとき初めて見た。廊下の灯りに照らされた彼の全身に目を凝らしながら、たった三日とはいえあの肉体を清めたのは自分自身だったのだと、ジェリコは誰にも言えない羞恥と高揚を抱えていた。
「<七つの大罪>のバン、か。どうやって牢を出たかは知らないが、とっとと戻れ」
「おい、ガキ。英雄に対して口の聞き方がなってないんじゃねぇの?」
「聖騎士見習いの俺をガキ呼ばわりか」
 バンはジェリコを、彼がジュドから救ったメイドだと認識していなかった。少なくとも表面的には、彼はその態度を貫いていた。
「お前才能あるぜ? 散髪の」
 ジェリコは髪を切り、髭を落としたバンの素顔を見た。やはり兄と同年代の顔立ちは、想像していたものよりもずっと端整だった。何よりジェリコは、彼の無傷の手足に自分の目を疑った。着古したズボンには確かに鉄杭で打たれた穴が開いていたのに、腿にも脛にも傷穴ひとつなかった。バンは確かに不死者(アンデッド)だったのだ。
 あの時、ジェリコは本気でバンを足止めしようとは思っていなかった。適当な口実で兵士たちを下がらせ、多少戦闘の真似事をした後は、隙を見て逃がしてやるつもりだった。そんなジェリコの心遣いなどどこ吹く風で、彼女をたやすくあしらったバンは自力で何もかもを解決してしまった。
 <不気味な牙>(ウィアードファング)4名のうち3名がメリオダス一行の殲滅に出動するという異常事態に、呼応するように起きた<強欲の罪>(フォックス・シン)脱獄。混乱の極みに、ただひとりバステに留まっていたジュドはバンの手によってあっけなく殺された。ルインはメリオダスとの戦いで生死不明。結果、バンの拷問にジェリコが加担した事実は封印された。
 ジュドがバンから得たかった妖精王の森、しいては赤き魔神の情報についても、バステ崩壊とともにジュドの呪言の玉の所在がわからなくなり闇に葬られた。
 ジェリコはバステの任を解かれた。王都への帰還命令を手に、ジェリコはまたグスタフの元に戻る不満と安堵を胸に同居させ帰途についた。
 王都に着いても、ジェリコの表情は晴れなかった。ジェリコの憂鬱の原因は、バンと交わしたあの約束だ。
「殺してくれ」
 バステでの対峙で、ジェリコは彼との力の差を痛感した。鎧を剥ぎ取られるという辱めを受けながらジェリコは彼に手も足もでなかった。
「叶えるから。何だって、叶えてみせるから」
 独房の中で告げられた、バンの望みにジェリコはそう誓った。けれど、交わした約束を果たすには、ジェリコはあまりにも非力であった。
 鎧を奪われるさなか、彼の手が動くたびに露になるジェリコの肌に、バンは一切の関心を示さなかった。男の本能を慰められたいのは、この世でたったひとりだけ。バンの態度は、彼自身の言葉を証明していた。
 ジェリコは悔しかった。彼の視界に入らない自分自身が。あのバステでの5日間は、二人の間に確かに何かを芽生えさせていたのに、バンはもうジェリコのことなど毛ほども気に留めていなかった。
 強くなりたい。彼の目に映りたい。
 あのときのメイドは俺だ。お前が死を乞うた女は、お前との約束を必ず果たす。ジェリコは去り行く彼の背にそう叫びたかった。しかし、下着一枚にされた姿では、バンを引き止めたところで余計にみじめになることはわかりきっていた。
 悔しさを抱えて王都に戻っても、ジェリコの魔力は目覚めなかった。魔力が意志の力であるのなら、バンの望みを叶えたいジェリコの心に足りないものは何なのか。バステで、あれほど激しくジェリコの内で沸き立った曽祖母の血は沈黙を続けている。
 苛立ちを募らせるジェリコを、呼び出したヘンドリクセンはこう言った。
「新たな可能性を与えよう」
 ヘンドリクセンの背後にぶら下がるモノに、ジェリコはおののいた。赤き魔神の屍体。ジュドがヘンドリクセンに取り入ろうとし、バンを拷問にかけてまで得たかった情報そのものがそこにあった。
 ジェリコは、魔神の血を飲んだ。それ以外に選択肢はなかった。無力な自分への失望と苛立ち、バンとの約束への想いがグラスを傾ける手を後押しした。

 殺してやる。

 不死者(アンデッド)の果てのない人生に、幕を下ろす。ジェリコがバンに向ける殺意は、慈悲とも意地ともとれる複雑な色合いを帯びていたはずだった。ジェリコさえ分類できないモザイク状の殺意を、彼女の体内に入った魔神の血は黒一色に染めた。他の色を支配する黒は、曽祖母から受け継ぎ、バンによって目覚めかけていた彼女の誇りさえ黒く染め上げてしまった。
 大きく歪められた殺意と執着は、ジェリコを浅はかに、愚かにした。力は力だとのたまい、あれほど憧れた聖騎士への理想を忘れさせた。虚栄心に逸る姿は、バステのジュドよりもずっと彼女を醜くした。
 黒の支配から、ジェリコを救ったのはバンだ。瓦礫の山と化した王都で、殺してくれというジェリコの懇願に、バンは殺してやると酷薄そうに笑って応じた。殺してやると誓った相手に、殺してと願う滑稽さを知る者は誰もいなかった。ジェリコもバンも、互いの間で交わされた密約を忘れさっていたのだから。
 聖騎士として、ジェリコはバンの手で殺された。黒く塗りつぶされた殺意が、魔力とともにジェリコの中から溶け出していった。
「あいつのせいで、頭ン中がぐちゃぐちゃだ!」
 バステでの記憶は戻らぬまま、ジェリコに残ったのは、バンへの想いだった。バステの独房で、恋をするならこんな(ひと)がいいと、抱いた憧れの名残だった。





Gustav

 「どうやら妹は、あなたに気があるらしいのです。バン殿」
 鳴り響く木槌の音、人々の明るい声の間を縫って、グスタフの告白はバンの耳に届いた。その証拠に、ハの字に垂れた眉と不釣合いなほどつり上がったルビー色の瞳が眇められた。
「たぶん初恋です。俺をノーカンにするなら」
「そういうの興味ねぇから」
「ではフってくれませんか。妹を。できるだけこっ酷く」
「ひでぇ兄貴だな、おい」
 グスタフの注文は、興味のないものには冷たいというバンの声をわずかながらに優しくした。もちろんグスタフに、そんなバンのささいな変化が気づけようはずもない。
 ひどい兄。その通りだとグスタフは、バンの酷評を胸に収めた。
 グスタフが見据えるバンの背後には、瓦礫の山と化した王都の景色が続いていた。今夜の王国誕生祭のために、出来る限りの復興をしようと国民たちは活気づいている。人々の明るい声は、凄惨な戦いのあとにもたらされた救いだった。しかしグスタフは、その救いを漫然と浴することができなかった。栄えあるリオネスの王都をこんな姿にしてしまったことに、グスタフとジェリコは深くかかわっている。
 グスタフは、悪に染まった二大聖騎士長を止めることができなかった。それどころか、彼らの暴走に気づくこともできなかった。その間にジェリコは悪の手先となり、ついには異形の姿で街を破壊した。
 妹がヘンドリクセンが勧めるまま魔神の血を飲んだことに、グスタフは大きな責任を感じていた。ジェリコがヘンドリクセンに呼び出されたのは、バステが壊滅し、任地を失った彼女が王都に戻った後のことだ。王都に戻ったジェリコはおとなしく家に戻ることこそ承諾しても、グスタフにはかたくななままだった。一つ屋根の下に暮らしながら兄妹の仲は冷え切ったまま、その直接の原因を、グスタフはバステでの自分の一発だと受け止めていた。
 ジェリコをぶったのは、あれが初めてだった。思い出すたびに、右手のひらが痛んでしかたがなかった。
「俺はジェリコを守れなかった。魔神の血からも、ヘンドリクセンの魔の手からも……。
 俺は諦めるべきじゃなかったのに。あの日、バステで、俺は絶対に引くべきじゃなかったのに」
 力ずくでも、妹をバステから連れ帰るべきだった。
 グスタフが手ぶらでバステを去った二日後、ジェリコは脱獄したバンに手酷い負けを喫した。兄に勝ちたいとい気持ちに、バンを倒したいという気持ちが上乗せされ、そこを彼女はヘンドリクセンにつけこまれたのだ。
 その妹が今、彼に恋をしている。
「ジェリコの想い人があなただと知ったときは、肝が潰れました」
「そう言ってくんのはお前だけじゃねぇよ」
 茶化してくるバンに、グスタフも苦笑いを浮べた。バンに告げたことは本当だ。ジェリコの恋を知ったときにはその場で卒倒しかけた。朝から騒がしい妹の部屋の前で、妹の大きすぎる独り言を聞いたとたん、めまいを起こして廊下に這いつくばった。

 なんで、<強欲の罪>(あの男)なんだ!

 グスタフは、頭を抱えた。ブリタニアにもリオネスにも、他に男は五万といるのに、よりにもよってどうして「彼」なのか。メリオダスやギルサンダーに惚れたと言われたほうが、まだマシだった。
 尋ねるわけにはいかない問いに七転八倒して、どうにか自分を取り戻したグスタフはバンを探して王都中を歩き回った。ようやく見つけ出した彼に、妹を助けてくれた礼にかこつけて、彼女の恋を終わらせてくれと頭を下げたのだ。
「俺は妹に幸せになって欲しい」
 それはグスタフの変わらない願いだ。
「ですが、大罪人(あなた)では無理だ。そうでしょう?」
 嫌われても、憎まれても良い。グスタフは、自分が思い描く妹の幸福を貫くことに決めた。グスタフがよしとする妹の未来絵図に、バンは不向きすぎた。
 聖騎士なんて諦めれば良い。グスタフはもう、異形に飲まれたジェリコの姿を見たくなかった。殺さないでくれ、助けてくれ、そんな言葉は二度と口にしたくなかった。胸が潰されるような、この身を裂かれるような、つらい想いをしなくて済むのなら、自分勝手なエゴと後ろ指を差されてもグスタフはかまわなかった。
 ジェリコは曽祖母の生き写しだ。世間知らずで、わがままで、自分を守ろうと目に見えないナイフを振り回し続けた曽祖母に、ジェリコは歳を重ねるごとに近づいていった。変わっていく彼女を、グスタフはどうしてやればいいかずっとわからずにいた。
 けれど、その迷いも今はない。
「初恋なんて、叶わないものですよ」
 だからさっさとフラれてしまえ。今ならまだ、傷も浅い。そうしてジェリコの破れた初恋ごと、受け止めてくれる男に愛されれば良い。
 曽祖母は自分勝手なひとだった。そのくせ、自分は孤独だと思い込んでいるひとだった。彼女の傍には、いつも夫である曽祖父がいたのに。彼は母から妻を守ろうとはしなかったけれど、彼女のわがままは受け止め続けた。姑が亡くなってしまえば、二人は二人の意志によって離縁することもできた。しかし、二人は添い遂げた。そんな愛の形も、この世にはある。
 ましてやグスタフとジェリコは血のつながった兄妹だった。ジェリコがどんなにグスタフに抗っても、グスタフを憎んでも、この繋がりがあるかぎり二人は兄妹だった。
「はなっからてめぇの妹に興味なんざねーよ。俺に頼んな。てめぇでしっかり家に繋いどけ」
 バンの言葉はつれない。それでも、ジェリコの相手をしない確約を得たことにグスタフは一応の安堵を得た。
 バンへの直談判を終えて屋敷に戻ると、そこには相変わらずそわそわと落ち着かない妹がいた。今朝から、ジェリコは着替えや髪のセットをやたらと繰り返していた。誰を意識してのことか、わかりやすすぎるほどわかりやすい妹にグスタフはため息をこぼした。
「ジェリコ、話がある」
 バンのことを指摘して反対したら、きっと暴言の嵐が来るのだろう。しかし、自分はこうするしかない、こんな方法しか知らないのだ。腹を決めたグスタフは、可愛い妹を前に表情を引き締めた。





Ban

 バステでのジュドの拷問は、後遺症と言う点ではバンにまるで禍根を残さなかった。むしろ、毎晩のように訪れるエレインとの再会と別れは、彼女の死後20年にわたってバンの胸に広がり続けていた空白を埋めた。
 会いたい。彼女に会いたい。会って、触れて、抱きしめて、愛していると伝えたい。
 バステを後にしてまもなく訪れた死者の都で、彼女の魂と再会を果たしたとき、バンの20年煮え切らなかった腹は決まったのだ。
「いつか必ず、お前を奪う」
 彼女に告げた誓いの言葉は、バンの止まっていた世界を動かした。
 エレインの復活と言う、途方もない願いにバンは本腰を入れた。ジュドの悪夢はその良いきっかけだったと言うしかない。騒々しいバステの片隅で、なるべく苦しまずに逝かせてやったのは正解だった。今ではもう、バステでの5年にわたる獄中暮らしも遠い昔のようだった。
 死者蘇生の秘術をもとめてブリタニアをさまよいながら、バンはふとした折にバステを思い出していた。エレインの他には珍しい、その面影は女の姿をしていた。
 ジュドの密命を受け、虜囚だったバンの傍に侍っていた若いメイド。彼女はその後どうなっただろうか。彼女との数日は、バステでの味気ない日々の中で異彩を放っていた。
 任務に失敗した彼女に向けられた、ジュドの悪意からは「強奪」(スナッチ)で守ってやった。以来、彼女との音信はない。彼女は今も、このブリタニアのどこかで無事にいるだろうか。
 バンは彼女に感謝していた。動けないことになっている自分に代わって体の世話をしてくれたことだけではなくて、ジュドの企みからバンの過去を守ろうとしてくれたことに礼を言いたかった。彼女の行動には勇気があった。実害と言う面では、バンの過ちがジュドに知られたところで痛くもかゆくもなかった。けれど、心に深く秘めた想いは何を詰まれても明け渡してはいけないのだという、彼女の行動はバンの胸に光をかざした。
 エレインへの想いは、譲れない。
 あのメイドが教えてくれたバンの真実が、今のバンを動かしていた。
「エレインって、お前の何なんだよ」
 尋ねたのはジェリコだった。エレイン復活に急くバンの後ろを、彼女は離れることなくついてきた。妖精王の森でエレインの亡骸に引き合わせても、引く気のない彼女にバンは早々に追い払うことを諦めた。男女の二人旅というスタイルは土地の人間の信用を買うには便利であったし、ジェリコの金があればタダでは利かない融通も利いた。何より、彼女を説得して王都に帰す、その手間隙がバンには惜しかった。
「俺のオンナ」
「あの小っせぇ女の子が?」
「良い女だろ?」
 きゅっとジェリコの顔が歪む。厚めの唇を尖らせた姿に、バステでのメイドが一瞬よぎった。確かジェリコとの出会いもバステだった。ジェリコと、バステの彼女にまつわる情報がバンの頭を駆け巡った。
 メイドには兄がいた。ジェリコにもグスタフがいた。どちらも兄妹仲は円満ではなかった。
 ぐるんと音がしそうなほど、勢いよくバンはジェリコを振り返った。ジェリコの驚いた丸い鳶色の瞳に見覚えがあった。
「お前か?」
「は?」
 年の頃も、背格好も一致する。だが彼女がそうだったとして、バンにバステでのことを何も言ってこないのはなぜだ。たった一度裸に剥かれたことを騒ぎ立てる女が、同じ時期に体の世話をさせられたことに口をつぐんでいると言うのはおかしな話だった。
 万一にジェリコがあの時のメイドだとしたら。どういうことになるかバンは考えた。本人は、今でも充分やかましい「責任をとれ」コールをさらに盛んにするだろう。妹の幸せのためなら、手段は選ばなそうなグスタフの反応はどうだ。キングは。エレインは。

「何が何でも責任とってもらうからな!」
 俺じゃなくてジュドに言え。

「ジェリコになんてことを……、赦さん!」
 妹と一緒で面倒くせぇ奴だな。

「エレインと言うものがありながらキミって奴は。妹に言いつけるぞ」
 なんでてめぇがしゃしゃり出てくんだよ。

「バンの浮気者っ、嫌い!」
 これは凹む。

 バンはくるりとジェリコに背を向けた。
「……いいや、こっちの話」
 どっちを向いても面倒くさい話になるに決まっていた。ジェリコが忘れていると言うのなら、寝た子を起こすこともない。知らないフリをしているのが得策と、バンは問い詰めるジェリコを黙殺して先を急いだ。





Jericho-2

 「エレ、イン……」
 口から血をあふれさせて、バンが言う。切り裂かれた彼の喉笛からは、間欠泉のように血が噴出していた。
 彼の前に立つ少女の姿に、ジェリコもまた目をむいた。赤いドレスこそ見慣れないが、肩までの金髪とぬけるような白い肌、幼いながらも美しい顔立ちは忘れたくとも忘れられない。かつてジュドが喉から手が出るほど情報を欲しがった妖精王の森で、バンが大切に守る少女の亡骸と瓜二つだった。
 双子の片割れ。ドッペルゲンガー。はたまた、ヘンドリクセンが見せた死者使役と同じ類の力なのか。あの亡骸に命が宿り、動いている。そんなバカなと、ジェリコは向かい合うバンとエレインらしき少女の動向に固唾を飲んだ。
 赤いドレスをまとった少女は、花に抱かれて横たわっていた彼女とは受ける印象がまるで違った。だがバンは、交わしたキスだけで正真正銘本物だと断言する。
 これが、バンの恋人。
 彼が生き返らせたいと願い、ブリタニアをあてもなくさ迷い歩く原因となった少女。彼女のことを、彼女に捧げたバンの想いを、ジェリコはずっと以前から知っているような気がした。妖精王の森の広間で、物言わない彼女を抱き上げたバンの背中に感じたものとも異なる感覚は、目ではなく、耳で触れた記憶だった。

「夢なら、あそこにいける。アイツのいる森に」
 妖精王の森のこと? アイツって誰?

「もっとだ……」
 何が?

「マジで安心しろって。どうこうしてもらいてぇ奴は他にいんだから」
 笑うお前は暗がりの中にいてよく見えない。

「夢で、俺はアイツを殺してる」
 一体、そんなところで何の話をしているんだ?

「悪くねぇぜ。悪夢も。アイツに会える」
 なぜ笑える? その髭面は何だよ。

「会いてぇんだ」
 会いに行けよ。そんな暗いところから出て。

「もっと来い!」
 そうだ。これが、お前と俺の出会いだった。

 音の洪水が耳から頭に流れ込む。バンの声だ。無数にこだまするバンの声は、ジェリコの閉ざされていた記憶の扉を突き破った。ジェリコを「嬢ちゃん」と呼んで笑いかける彼は、グスタフのことを褒めていたのだ。
 不気味な泡のごとく、あの5日間がよみがえる。ジェリコの葛藤も、二人のやりとりも、ジュドから守ってくれたことも、ひとつ、ひとつ、泡が弾けるごとにジェリコの記憶に色がついた。
「殺してくれ」
 バンから託された願いは、目の前の彼女に会いたいがため。その望みは今、叶った。たとえ悪夢でも会いたいと願った彼女が、彼自身を傷つけたとしても、バンの心が歓喜に震えているのがジェリコにはわかった。
「ごめんな、バン」
 ジェリコにバンは殺せない。どんな約束があったとしても、ジェリコにとって、彼はもうあの時の彼ではない。惚れた男にそんな真似はできなかった。
 誓いを反故にする言葉に、耳を傾ける者はいなかった。目の前では、血みどろの痴話喧嘩が続いていた。バンが抵抗ひとつしないから、喧嘩ですらない。恋人からの怒りの叫びを、バンは満身創痍で受け止めていた。
「バンのバカ!」
 悲鳴のような罵声とともに、バンの体がバラバラにされて崩れ落ちる。バカはお前だ。ジェリコはたまらず走り出した。全てを見ていたというくせに、彼の心がなぜわからないのか。ジェリコは赦せなかった。彼が愛しいから。彼が捧げた恋に憧れたから。黙っているわけにはいかなかった。
 寝ても覚めても、バンが想うのはただひとりの最愛の女(ファム・ファタール)
「バッキャロー!」
 見当違いな嫉妬を振りかざすバカ女に、彼の想いを、その深さを思い知らせてやりたかった。





「Five Days」 了
最後までお付き合いありがとうございました。

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