プロローグ 出奔




 ジェリコはリオネス貴族の娘だった。
 ジェリコの家は、三代にわたって優秀な聖騎士を輩出した名門貴族だった。その最初の聖騎士を産んだのは彼女の曽祖母であり、彼女の生まれもまた貴族だった。しかし貴族は貴族でも、王都に住まう中央貴族とは格が違う、地方領主と言えば体のいい、いわゆる田舎貴族であった。
 ジェリコの曽祖父がジェリコの曽祖母と結婚したとき、二人の家柄の格差はリオネス中の話題になった。それまで聖騎士こそいなかったものの、歴代当主は騎士として国王の新任厚く、曽祖父自身も有能な騎士隊長だった。その彼が、何を血迷ったのか田舎貴族のおてんば娘を妻にした。玉の輿をうらやむ一方で、二人の夫婦関係はきっとうまくいくまいという声が大勢を占めていた。
 案の定、すぐに嫁と姑の対立が始まった。盛大な結婚式の熱も冷めやらないうちに、田舎娘は中央貴族出身の姑の不興を買った。のちにジェリコの曽祖母となる彼女も、このときは慣れない王都暮らしにストレスを抱えた若い娘に過ぎなかった。心の内はさておいて、表向きは姑の機嫌を取って、自分の立場を守る利口さを彼女は持っていなかった。
 ジェリコの曽祖母は、姑から徹底的に押さえつけられた。乗馬の稽古がしたいといえば貴族の妻らしくないと叱られ、髪飾りひとつ選ぶにも姑の許可がいる有様だった。窮屈な日々に、夫は、少なくとも妻が満足するほどには彼女を守ってくれなかった。彼もまた若く、母との亀裂を避けたかった。
 ジェリコの曽祖母は、田舎育ちらしく自由に生きてきた。弟たちとサーカスごっこをし、木登りに興じてはメイドや家庭教師たちをハラハラとさせてきた。共も連れずに野山を駆け回っていたさなかに、狩猟に訪れていた若き騎士に見初められたことが夫との出逢いだった。
 そんな自由奔放な娘が、古式ゆかしい戒律を信じている姑の干渉に黙っていられるはずがなかった。しかし、彼女を取り巻く環境は彼女に冷たかった。故郷から遠く離れた地で、頼れるものはいなかった。夫ですら、彼女の本当の味方ではなかった。
 彼女は諦めなかった。彼女は戦い続けた。時に勝ち、時に敗れた。激しい戦いの日々に、彼女は男の子を産んだ。のちのジェリコの祖父となる男の子は、彼女が嫁いだ家系で初めての聖騎士となった。
 祖父は父親の性格をよく受け継いでいた。真面目で、頑固、自他ともに厳しさを求めるのは、明らかな父方の血筋であった。しかし、こと魔力に関しては、母親の影響が色濃いといわざるをえなかった。
 魔力は意志の力だ。その突然の覚醒は、姑にも夫にも、貴族社会にも口さがない世間にも負けず、自我を貫こうとした曽祖母の執念が胎児のへその緒を通じて祖父に流れ込んだかのようだった。曽祖母の自由への渇望は、魔力という形で祖父に、祖父からジェリコの父、そしてジェリコの兄へと受け継がれていった。グスタフの魔力にいたっては、父や祖父をもしのぐ歴代最高の紅玉(ルビー)の聖騎士の座につくほどだった。
「兄貴にできるんなら、俺にだって!」
 そのグスタフに向かって、ジェリコは叫んだ。光の加減で薄紫に見えるプラチナブロンドも、凛々しい眉も、大きな丸い瞳も、厚い唇にいたるまで、彼女は名門貴族の聖母たる曽祖母の肖像の生き写しだった。さらにつけ加えるのなら、干渉を嫌う性格も、気の強さに反して魔力を持たないことも、曽祖母と同じだった。
「えらそうなことを言うなら、聖騎士見習いの訓練を全うしてからにしろ!」
 反抗心をむき出しにするジェリコに、グスタフは威圧的な声色と態度で応じた。対峙する兄と妹の姿は、生前の姑と曽祖母そのものだった。
 グスタフは、先祖代々の厳格さを受け継いだ青年だった。むしろ厳しさでは父をもしのいだ。そこには彼が21歳の若者だと言うことも関係していた。若さゆえに折れることを知らず、血が繋がっているだけに、とりわけ妹には容赦しなかった。その裏でグスタフが実は誰よりも妹の幸福を願っていることを、当のジェリコは知らない。
「俺は、女を捨てる」
 ジェリコがそのセリフを初めて吐いたのは、7歳のころ、彼女の目の前にはグスタフがいた。彼女の不退転の決意に根負けしたグスタフが、彼女を聖騎士見習いにしてもらえるよう口ぞえをしてから10年以上が経っていた。いずれ厳しい訓練に音を上げて己の分を思い知るだろうというグスタフの予想に反して、ジェリコは女だてらによくもっていた。しかし、肝心の魔力は一向に目覚めない。そのことにジェリコ自身焦りを感じていて、余計にグスタフへのあたりは強くなっていった。だがそれに負けるようなグスタフではない。
「今日の訓練の報告はどうした!」
 望まないまま妹を聖騎士見習いに推してから、10年以上、グスタフはジェリコにその日受けた聖騎士見習いの訓練内容を報告させることを欠かさなかった。彼女が無茶をさせられていないか監視する目的とともに、彼女の聖騎士への憧れを潰すためでもあった。
 グスタフは彼女が訓練で出した成果を全て否定した。
「その程度のこともできないのか、お前は!」
「よくそれで聖騎士になりたいなど……、この恥さらしめっ」
「お前には無理なんだ」
 本当は褒めてやりたかった。女の身でよくやりとげたと、もうそんな苦しいことをしなくていいのだと、肩を抱いてなぐさめてやりたかった。だが、グスタフに流れる頑固者の血が邪魔をする。
「うるさい、うるさいうるさい! 今にきっと結果を出してやる!」
 グスタフが心を鬼にすればするほど、ジェリコは歯向かった。彼女自身、聖騎士にはなれない不安が歳を重ねるごとに増していた。だが兄の「無理だ」という言葉を聞いた瞬間、カッとなる。頭に血が上って、胸にあったはずの不安は吹き飛んだ。兄に出来て、自分にできないはずがない。気持ちは勝手に大きくなり、切る啖呵も大きくなった。
「今に見てろっ、兄貴じゃ絶対できないことやってやる!」
 バステ行きを選んだのは、そんな兄との諍いがあった直後のことだ。
「何でもかんでも、口を挟みやがって……」
 性別を捨て、聖騎士見習いにねじこんでもらうことは叶った。だが訓練教官よりもこまごまと、ジェリコのなすことすべてに首を突っ込まれていたのでは何も変わらない。進歩のない口論を終え、これからのことにうんざりしていところに異動話が持ちかけられた。ジェリコは、これぞ天の助けと一も二もなく飛びついた。
「好きなほうを選びたまえ」
 リオネス近郊の村の騎士団か、苛酷と名高いバステ監獄か。兄なら村の騎士団にしろというだろう。だからジェリコは、あえてバステを選んだのだ。
 正式な辞令を受けるやいなや、ジェリコは馬を駆った。馬とひとつになって先を急ぐ様は、逃亡兵さながらだった。事実、ジェリコは逃げていた。グスタフから逃げていた。
 ジェリコの異動の報せが兄の耳に入るまで、遅くとも半日、早ければ追っ手が差し向けられていてもいいころだった。捕まってたまるか。ジェリコは鞭をしならせ、携えた辞令を確かめた。バステの人間にこの辞令を受け取ってもらえれば、ジェリコの異動は確定する。兄がどう画策したところで、そこまで話を進めてしまえればもうこちらのものだった。ジェリコは鞭をしならせる。
 速く、もっと速く。バステへ!
 自由を愛した曽祖母の生まれ故郷も近いその地へ、ジェリコは馬に鞭をふるって先を急いだ。





※ジェリコ、グスタフの貴族設定はオリジナルです。
※ジェリコの曽祖母は、ミュージカル『エリザベート』のシシィをモデルにしています。

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スペシャルサンクス

原作1~18巻
ノベライズ『七つの願い』
ミュージカル『エリザベート』

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