二日目 接近
バステでの初めての朝日を、ジェリコは夢を見ることなく迎えた。夢どころか、ゆうべは一睡もしていなかった。まんじりとせず夜を明かした目はうっすらと赤みを帯び、顔色は青かった。それでも頭は冴えて、体も溌剌としている。てきぱきと身支度を整える折々に、日当たりのよくない部屋の薄暗がりで鳶色の瞳が爛々と輝くさまは異様だった。
「『本物』を見せてやる」
ゆうべ、ジュドはジェリコをバステ唯一の独房へと誘った。囚人第一号専用の独房の暗がりの中で、生きる伝説の姿を拝もうと必死に目を凝らした癖が、一晩たっても、朝日の中にいても抜けずにいた。耳の奥にも、彼の悲鳴がこびりついて離れなかった。
今日がバステでの仕事始めだった。ゆうべジェリコを歓迎した騎士団長は、ジェリコに倉庫の鍵を預けた。つまりは倉庫番をしろということだ。王都でならいかにも下っ端兵士の仕事だが、ここではいささか事情が違った。聖戦勃発時の最前線基地として築かれたこの要塞では、常に戦時を想定した備えが必要とされていた。武器、馬具、火器に兵の食糧。それらが整わなければ戦は始められない。ジェリコは軍の生命線を預けられたに等しかった。
昨日までのジェリコなら、騎士団長の抜擢を小躍りして喜んだことだろう。しかしジェリコは心ここにあらずの状態で一日を過ごした。過去の物品の出入記録を検めつつも、ジェリコの眼差しはバステの高層へと引き寄せられる。あの場所に、ゆうべの自分は立っていた。
「ジェリコ様。こちらが最後の倉庫です」
「開けてくれ」
兵士二人がかりで開かれた、木製の扉の先は暗い。日光や雨露による在庫の劣化を防ぐため、倉庫には明り取りと換気をかねた小窓が高いところで向かい合うように二つ設けられている。灯りがなければ足元はおぼつかない暗さだが、ゆうべの独房と比べればはるかに見通しが利くとジェリコは灯りもなく倉庫の奥へと足を進めていった。視線は知らず知らずのうちに、より暗い方へと吸い寄せられていく。壁際のひときわ暗い一角を見つめていると、あるはずのない紅い光がまぶたの裏できらめく。闇を切り裂く輝きに、ジェリコは人知れずぞくりとした。
大罪人と関わることのないバステは、その役割を考えれば妥当な物々しさで、またたくまに時間が過ぎる。日も沈み、宿直の騎士に引き継いだジェリコは早めの夕食もそこそこに自室にひきこもった。ベッドに片膝を立てて、思うのは<強欲の罪>のことだ。
「もっとだ……。もっと来い!」
拷問を恐れるどころか、囚われの<強欲の罪>はジュドたちを挑発した。バンの態度をジュドは強がりと受け取り、ルインに幻術を再開させた。それから完全に腰が抜けたジェリコを、ジュドは独房の外に引きずっていった。
「聖騎士になりたいのだろう。動けない虜囚の眼光でそのザマはいただけんな」
ジュドの侮蔑に、ジェリコの顔はカッと赤くなった。ことさら意識せずとも、グスタフの叱咤が耳に蘇る。ここでも、自分は役立たずなのか。
「今夜は特別だ。二度とここへは近づくな」
せっかく<不気味な牙>に目をかけてもらえると思ったのに、すぐさま落第の烙印を押されたようでジェリコは悔しさに拳を握った。
第一、ジュドが特別扱いをしてくれたのだって、グスタフの言伝があったればこそだ。どこへいっても何をしても、つきまとう兄の影にジェリコは唇を噛みしめた。兄に勝ちたい。兄に成し遂げられなったことがしたい。そう願うジェリコの脳裏から、ゆうべ見た<強欲の罪>の姿が離れずにいた。
<七つの大罪>。グスタフが聖騎士見習いになりたてだった頃、ジェリコのわがままに振り回されてくれていた頃、彼の口からその名をよく聞かされたのを覚えていた。あのころのジェリコにとって、幼くして魔力を見込まれた聖騎士見習いの兄は自慢の種だった。その兄が遠目にしかその姿を知らず、口をきくなどとんでもないと言う<七つの大罪>は、どんなにすごい存在なのだろうと幼心に思った。そんな畏敬すべき伝説のひとりに、ゆうべ、ジェリコは距離だけなら限りなく近くにいたのだ。
「<強欲の罪>と、話してみたい……」
<七つの大罪>と口をきく。王都にいるグスタフにはできずとも、ジェリコには可能性があった。
そうとなれば、もういてもたってもいられない。二度と近づくなというジュドの警告も吹っ飛んだ。一度決めたらてこでも動かないのが、曽祖母ゆかりのジェリコの性格だった。ジェリコはすぐさま計画を練った。
ジュドの言うとおり、<強欲の罪>の独房のある区画は理由なく立ち入ることは禁じられていた。しかし特別な結界やトラップがしかけられているわけではなく、昼間独房の前にいる見張りも二人だけ。独房にたどり着く複雑な経路も、すでにジェリコは踏破していた。
<強欲の罪>にたどり着くまでの問題は、見張りの兵士と独房の鍵の二つだった。特に扉の鍵は難問だ。この国でも指折りの大罪人を収容している牢の鍵ならば、十中八九ジュドが所持しているに違いなかった。
この手ごわい壁を前に、しかしジェリコは燃えていた。女だからと自分を見下し支配しようとする兄に、一矢報いる絶好の機会だった。姑に一泡吹かせるときの曽祖母と同じ心境が、ジェリコの闘志を燃やしていた。
鍵の件は、想像よりもずっと簡単に解決した。独房の扉の鍵は、見張りの兵士も所持している情報を彼女は掴んでいた。ただし鍵は二人の兵士がそれぞれ持ち、二つの鍵を同時に差し込まなければ開錠されない。おまけに、兵士が鍵の使用を赦されるのは、<不気味な牙>の誰かからの直接指示、もしくは国王の辞令が下りた場合に限られていた。
ジェリコの問題は、いかに鍵の使用が赦される状況を作り出すかへと移った。ジェリコの選択肢は少なかった。ジェリコはリオネスから持参した荷物の中から、一通の書簡を引っ張り出した。バステ着任の際、騎士団長に提出した辞令の控えだった。原本と控えの差違は、国王の印章が入っているか否か。しかし、田舎出の兵士が本物の辞令を直に見る機会などないに等しい。ジェリコすら今回の赴任で初めて目にしたのだ。
うまく彼らを油断させることができれば、偽造した書類で言いくるめられる。ならばどうやって彼らの油断を誘えばいいのか。夜な夜な耳を塞ぎたくなる絶叫が聞こえる独房の見張り番に、彼らの緊張も極地に達しているはず。
ジェリコはふむ、と唸った。部屋に備えつけられた鏡に目を向ける。髪をきりりと結い上げた、若武者の姿が映っていた。この中身が、女であると知る者は少なかった。
「気は進まないが、これしかないか」
ジェリコはパチンと胸当ての留め金をはずした。
「お勤めご苦労様です」
監獄要塞では耳慣れない、女の高い声が廊下に響く。独房の前に立つ兵士二人は、そろって声の方に振り向いた。メイド服に頭巾をかぶった若い女が、二人に向かって会釈している。
「何者だ?」
「独房のお掃除に参りました」
通常、牢の清掃は囚人たちの役目だ。いくらこの独房の住人がVIPとはいえ、メイドが派遣されるとは妙な話と兵士たちは顔を見合わせた。彼らの意識を、ジェリコは声としなのある仕草で引き寄せる。相手の疑心が深まる前に、ジェリコは畳み掛けた。
「私もこんなお仕事は初めてで……。お上のお考えになることは、下々の者にはわかりませんね」
騎士団は上意下達。下の者は上の者の命令に疑問を抱いてはならないと、まず徹底して教え込まれる。おまけに彼らが見張りに立っているのは、異例の上にも異例を重ねた大罪人の独房だった。どんな命令が下っても不思議ではないと兵士たちが納得するまで、ジェリコは辛抱づよく彼らを誘導し続けた。
「お疑いでしたら、こちらをどうぞ。王都からの辞令でございます」
「検めさせてもらおう」
恭しく差し出した書簡を受け取った兵の手に、ジェリコは自分の手を重ねた。兄以外の男の体温に、手のひらから嫌悪感がぞわりとこみあげた。それも何とか押さえ込んで、ジェリコは艶然と微笑んでみせた。
「まぁ、冷たい手。こんな場所では凍えて当然です。お労しい」
貴族の娘として、ジェリコは人に傅く人間の所作を多く目の当たりにしてきた。その経験がまさかこんなことで役に立つとは思わなかった。昼間男装を解かないジェリコは、バステに赴任して日が浅いため、まずは男として扱われる。目の前の兵士たちも、たおやかなメイドと居丈高な聖騎士見習いを結びつけようとはしなかった。
「こちら様も、冷えてらっしゃいますね。お疲れの出ませんように」
辞令を回されたもう一人の兵の手も握る。急ごしらえで偽造した辞令を、まじまじと見られるわけには行かなかった。最後に騎士団長に渡すからと、ジェリコははやばやと彼らの手から辞令を回収した。
「それでは、中に入らせていただきます」
手ひとつとはいえ、やわらかな女の肌に骨抜きになった兵たちは、すでにジェリコの術中にいた。彼らはジェリコにそそのかされるがまま、それぞれの懐から一対の独房の鍵を取り出した。
「ここまでは、計画通り……」
ジェリコは再び、独房の暗闇に足を踏み入れることに成功した。血の匂いは、やはり強い。
万一の逃亡を防ぐため、本音はジェリコの行動を覗かれないため、扉は兵士たちに閉めさせている。続けて強く三度叩かなければ、ドアは開かない手はずになっていた。掃除道具を抱えて、ジェリコは足を踏み出した。もちろん道具は形だけで、彼女の目的は他にあった。
ゆうべの今日で、独房の内部はなんとなく覚えていた。お目当ての<強欲の罪>がこの部屋のどこにいるのかも。彼は一番奥の壁から動けない。ジェリコは足音を殺した。堂々と会いにきたと名乗るべきかとも思ったが、兵たちに聞かれることを恐れた。忍び足で先に進むにつれ、次第に目が慣れてくる。部屋の奥で白い輪郭がぼうっと浮かび上がった。<強欲の罪>のざんばら頭だとすぐに見当がついた。
ぴちゃり、とジェリコの足が濡れた音を立てた。こんなところになぜ水が。ジェリコは首をかしげた。飲み水をためておく桶が、どこかでひっくり返っているのかもしれない。
ゆうべと変わらず、男は壁に手足を打ちつけられた姿でそこにいた。ゆうべと違うのは、自由だった頭にすら口枷をはめられていたことだ。横に曲げた鉄杭を噛まされ、その鉄杭もまた別の鉄杭で壁に打ちつけられていた。ジュドの指示によるものとしか思えなかった。
<強欲の罪>と呼ばれた男は目を閉じていた。ゆうべ射抜かれた、瞳の紅を思い出せばジェリコの胸は震えた。あんな、強烈な視線に晒されたのは初めてだった。構えるジェリコを尻目に、男のまぶたはぴくりともしない。
「眠っているのか」
ジュドによれば、<強欲の罪>はバステに捕らえられて以後5年間、毎日のように拷問を受け続けていた。最近はじめたと言う悪夢のおかげで、夜はまともに眠れないのだろう。手足を杭で打たれたまま眠る姿は、信じられないほど穏やかだった。こんな身の上で、こんな場所で、よく眠れるものだとジェリコは<強欲の罪>の過ぎた豪胆さに呆れていた。
幼い頃、ジェリコは同じような闇を体験したことがあった。生家の蔵に閉じ込められた時のことだ。父の鍵をこっそり持ち出して入り込んだはいいが、内側からの扉の開け方を知らず出られなくなった。徐々に日がくれ、明り取りの窓からもほとんど光がはいらなくなり、闇が浸食していく蔵の底にジェリコは囚われた。下がっていく気温とともに、自分の命まで奪われていきそうで、恐ろしさのあまりジェリコはひとり泣きじゃくった。ジェリコの不在は、夜が更ける前に家族に気づかれた。泣き声がよかったのか、それとも蔵の鍵がなくなっていたことからか、たちまち居場所も突き止められてジェリコは蔵から救い出された。
後になって考えてみれば、どんなに遅くとも朝までにはメイドに見つけてもらえたのだ。死にそうな思いで泣き叫ばずとも、ジェリコは古い絨毯でも引っ張り出して眠っていればよかった。だからといって、当時のジェリコがその行動を取れたかといえば疑わしいことこの上ない。
「俺とは、事情が違うよな」
目の前の男は、小さな女の子ではない。だが彼に救い出される望みはなく、果てのない拷問の日々が続いていく。彼を眠りに誘うのは、希望のない未来に疲れきった心だろうか。
「同情は禁物だぜ、ジェリコ。こいつは大罪人なんだからな」
ジェリコは当初の目的を思い出した。意識がないのなら遠慮することもあるまい。ジェリコは手を伸ばせば触れられる距離まで近づいた。<強欲の罪>のリーチに入ることは、きわめて危険な行為だ。だがジェリコは攻めた。彼は眠っている。おまけに肝心の手足は動かせないときていた。ここまで来て引き下がれるかという想いが、ジェリコを突き動かしていた。
書類を偽造した。男に媚を売った。苦労して独房入り込んだのも、すべては兄よりも近くで<七つの大罪>に触れるためだ。
「さぁ、まずはそのツラ拝ませてもらおうか」
ジェリコはそっと、彼の額にかかる髪を払った。息遣いもわかる近さで、ジェリコは驚きに目を見開いた。
伸び放題の髪と髭はどちらも真っ白で、耄碌手前の年寄りか、よくて壮年の男をイメージしていた。しかし、露になった<強欲の罪>の目元は、若者のように瑞々しかった。皺らしい皺もない様は、グスタフとさほど歳が離れているとは思えなかった。ジェリコより3つ年上の兄は、今年で21歳を数えた。
「そんな、まさか」
<七つの大罪>が王の下に結集したのは、今から16年前。ジェリコはまだ2歳、グスタフでさえ5歳だった。その<七つの大罪>が先代の聖騎士長を殺し、散り散りになったのが10年前。現在の<強欲の罪>が兄に近い年齢、たとえば20代前半だったとすれば、10年前のこの男は今のジェリコより幼かったことになる。若手聖騎士の筆頭ギルサンダーですら、まだ聖騎士見習いだった年齢だ。そんな歳で、彼は一体どんな罪を犯して<七つの大罪>に名を連ねたのだろうか。
信じられない若さ、魔力、そして磔にされても死なない生命力とこの姿勢のまま眠ることが出来る肝の太さ。どれをとっても規格外の存在に、ジェリコに流れる曽祖母の血がまたぞろ騒ぎ出す。
もっと彼が知りたい。
兄への対抗心とは、すこし違う場所から湧き上がる思いに、ジェリコはぐっと目の前の男に顔を寄せた。髪と髭に隠された、彼の素顔が知りたかった。
そのとき、硬く閉じられていた<強欲の罪>のまぶたがぱっと開いた。闇の中で、紅い光がジェリコを捉える。そこにゆうべジェリコを貫いた熱はなかった。だがその輝きが、ジェリコの頭に声を響かせる。もっとだ、と彼は言った。要塞を揺るがすほどの悲鳴を上げながら、なおも悪夢をせがむ彼の狂気を現した暗い紅色が、ジェリコの心臓をわしづかみにした。
<強欲の罪>が目覚めた。これ以上ない危険に、しかしジェリコは動けない。喉が締め上げられ、金縛りにあったように全身が言うことを聞かなかった。まさかこれが<強欲の罪>の魔力なのか。ジェリコは今度こそ死を覚悟した。
「ふっ……」
声を漏らしたのは<強欲の罪>の方だった。はめられた口枷の裏で、彼はかすかに笑った。そして再び瞼を下ろすと、彼はまた眠りに落ちていった。
<強欲の罪>の紅い眼から逃れて、ジェリコはようやく呼吸を赦された。手足の緊張がとけ、ふらふらと後ずさる。心臓が鳴っていた。うるさいと、寝ている彼に怒鳴られないのが不思議なほど、ジェリコの心臓は暴れまわっていた。
「はっ……は、……」
呼吸が荒い。体に異常はなかったけれど、心はそうはいかない。ジェリコはようやく、自分がとんでもないことをしでかしていると悟った。いくら自由を奪われていたとしても、相手はあの伝説の大罪人のひとりだ。眼光ひとつでジェリコを殺す魔力を秘めているかもしれない。この独房の厳重さを、もっと深刻に受け止めるべきだった。
ジェリコはじりじりと足を下げた。<強欲の罪>に背を向けるのは、恐怖が過ぎた。背中が鉄の扉に触れたとたん、ジェリコは大急ぎで扉を三度叩いた。待ち構えていたのか、すぐに扉が開かれる。光に向かって、ジェリコは飛び込んだ。
「これで二度目の規則違反だ。ジェリコ」
廊下に転がり出たジェリコを、待っていたのはジュドだった。