四日目 兄妹




 ジェリコは眠れないまま朝を迎えた。バステに着任した夜もそうだった。どちらも原因はバンだったが、興奮の中で夜を明かした初日とは違い、今朝のジェリコは疲労困憊していた。
 昨夜いつもどおり始まったバンの絶叫は、夜を越え明け方まで続いた。ほとんど間断なく続く悲鳴はバステを揺るがし、まるで獣の腹にいるようだった。バステの兵と虜囚たちは、いつからこの声に耐えているのだろうか。鳥のさえずりさえ聞こえる昼間との落差に、いつ頭がおかしくなっても不思議ではなかった。
「眠れてるかな、アイツ」
 ベッドを置いた壁に頭をあずけて、ジェリコは不眠の元であるバンの眠りを気遣った。こめかみから染みる、壁の冷たさが心地よかった。
「妖精王の森の情報は、必ず俺が聞きだして見せます!」
 ゆうべ、ジェリコはジュドを前にそう啖呵をきった。だがそれは正しかったのだろうか。その疑念が、ジェリコの眠りを妨げていた。
 ジュドは聖騎士だ。しかも、<不気味な牙>(ウィアードファング)というリオネス有数の聖騎士集団の筆頭だった。彼が<強欲の罪>(フォックス・シン)に求める情報は、国や民を守るために活用されるのだろう。しかし人の弱みにつけこみ、悪夢を見せ、精神をけずりとってまで得た情報が、果たして本当に国や民のためになるのだろうか。それを実行しているのは、国の誉れとたたえられるはずの聖騎士たち。ジェリコ自身、昨日からその一味に加わっていた。
「兄貴はなんて言うだろうな」
 恥さらしめと罵るだろうか。立派に果たせよと激励してくれるだろうか。兄が褒めてくれたら、胸にわだかまる迷いも消え去るだろうか。たとえ相手が大罪人であれ、人の尊厳を踏みにじり利用する、そんな卑劣な行為を正当化できるだろうか。
「そうだよ。アイツは大罪人じゃねぇか」
 <七つの大罪>たちは、先代の聖騎士長を殺し、国家転覆を狙った。彼らを野放しにしておけば、国が揺らぎ、多くの無辜の民が死ぬかもしれなかった。国を守り、王を守り、民を守るのは聖騎士の使命だ。頭ではわかっているのに、釈然としきれない。人ひとりの「尊厳」というものに、ことさら敏感になっている自分がジェリコは不思議だった。ジェリコに流れる曽祖母の血が、世代を飛び越え、彼女に語りかけているとまでは考えなかった。彼女が考えていたのは、聖騎士とはかくあるべしという理想についてだった。聖騎士になりたくてもなれない彼女は、人一倍、聖騎士というものに純な夢を抱えていた。
「その眼は悪を見抜き、その口は真を語り、その心は正義に満ち、その剣は悪を砕く……」
 諳んじた聖騎士の訓示に、今の自分は恥じるところがないだろうか。大罪を負っていても、バンもこの国に生きる民のひとりではないのか。恋人がいて、彼女の死に後悔を抱えて、杭でその身を貫けば血が滴る、ジェリコや兄と変わらないひとりの人間だ。そのたったひとりを相手に、よってたかって心を弄ぶことが聖騎士のやることなのか、ジェリコの自問自答は尽きなかった。
不死身の(アンデッド)バン……」
 その異称が本物だとする、確たる証拠をジェリコは持たない。男盛りの肉体は、他の男たちと大きく変わらないように見えた。
 今夜もまた、彼の元に行くはずだった。ジェリコが日中の任務を終え、バンが強制的に眠りにつかされるまでのわずか2時間ほどの間、ジェリコはバンと二人きりにされ、彼の油断を誘うことを命じられていた。親しくなるもよし、色香で惑わすもよし、彼の口を軽くする方法はジェリコにゆだねられていた。気の置けない関係を築くという点につけては、ゆうべバンから恋人の存在を打ち明けられたことで成功していると言って良かった。バンから聞いた話をジェリコが胸の内におさめてしまっていることを除けば、事はジュドの読みどおりに進んでいた。
 兄すら畏敬をもっていた伝説の男を手玉にとる、稀に見る大手柄を前に、ジェリコの胸は弾むどころか苦しさでいっぱいになる。
 ベッドの上で、ジェリコは膝を抱えた。膝頭の間に鼻を埋めると、小さな子どもに戻った気がした。小さなジェリコは、閉じ込められた蔵の中で、闇に怯えながらグスタフの助けを待っていた。
「俺はどうしたらいいんだ、兄貴」
 兄はもう助けてくれない。兄の手を振り払ったのは、彼女自身だった。



 ジェリコのむくんだ顔をひと目見るなり、グスタフは顔をしかめた。ジェリコは明らかに寝不足の表情をしていた。昨日は一睡もしていないのだろう。だが睡眠不足以上に、気持ちに疲れを抱えているように見えた。妹が無断でバステに向かってから、たった4日での変わりようにグスタフは閉口せざるを得なかった。
 王都にいるはずのグスタフが、陣中見舞いの名目でバステを訪れたのは、ひとえに妹の身を案じていたからだ。
 グスタフの耳にジェリコ出奔の一報が伝わったのは、彼女が王都を飛び出した2時間後のことだった。早馬を出せば追いつくことができたが、グスタフはあえて妹を見送ることにした。苛酷と悪名高いバステ監獄での任務に、どうせジェリコは3日も持つまいと高をくくっていたのだった。
 しかし2日がたち、予想していた3日が過ぎる前に、グスタフの忍耐のほうが早々に音を上げた。妹がつらい目にあってやしまいかと、気が気でなくなった兄は王都に日が昇らぬうちにバステ目指して馬を走らせた。そうして対面した妹のひどい顔つきに、グスタフが即刻彼女を連れ戻そうと決めたのは当然のことであった。
「ひどい顔だな」
「別に」
 兄妹(きょうだい)の3日ぶりの会話がそれだった。ジェリコは唇を尖らせてそっぽを向いた。彼女の厚めの唇は、曽祖母ゆずりなのだとグスタフは母から教えられていた。母の言うとおり、嫁いできたころの曽祖母を描いた肖像は、ジェリコの特徴をよく捉えていた。
「髪も瞳の色も、唇まで、ジェリコはひいおばあさまにそっくりね」
 ジェリコが生まれたとき、グスタフは3歳だった。どんなに利発な3歳にも、自分より後に生まれたきょうだいという存在はにわかには理解しがたい。しかし半年がたち1年がたち、ジェリコの初めての言葉がママでもパパでもなく、自分を指すものだったあたりからグスタフの兄の自覚は一気に高まった。
「おにいちゃま」
 自分のあとを追いかけるいとけない女の子が、グスタフは愛しかった。
「ジェリコは、おにいちゃまのお嫁さんになるのよ」
 子どもらしい妹の願いはグスタフを喜ばせた。嬉しい気持ちを、グスタフは伝えようとした。
「ああ、ジェリコ。いつかおにいちゃまみたいなひとを見つけるといい」
 だがグスタフの言葉は、ジェリコを喜ばせなかった。ふくれっつらを真っ赤にして、地団太を踏んで妹は怒った。その目には涙が溜まっていた。
「いやっ、いやっ、他のひとはいや! ジェリコはおにいちゃまがいいの!」
「それは無理なんだよ」
 5歳の女の子に、兄と妹が結婚できないことを納得させるのは難しかった。8歳だったグスタフさえ、いけないことは知っていてもなぜいけないかまではわからなかった。思い返せばあのころから、兄と妹の心はすれ違っていた。ほほえましかったすれ違いが深刻な亀裂へと変わったのはいつのことか、グスタフはもう思い出せなかった。
「王都に帰るぞ」
「はぁ? なんで? 兄貴ひとりでどうぞ」
 おにいちゃまという愛らしい呼びかけはいつしか消え、星屑をちりばめたようなキラキラした瞳も、今では忌々しげにグスタフをにらみつけていた。
「バステは最前線基地だ。遊び場じゃない。お前など足手まといだ」
 バステにたどり着く前も、ジェリコと対面したこの部屋に案内されるまでも、グスタフは数え切れないほどの嫌なものを見た。要塞の修繕や増築のために、苛酷な労務をかされたダルマリーの村人。脱出不可能と言わしめる監獄に詰め込まれ、絶望にくれる虜囚たち。これがグスタフひとりで見る光景ならば耐えられた。しかし、同じものを妹の目に映すことは、彼には耐えがたかった。
 ジェリコの悲しい顔をグスタフは見たくなかった。幼い頃、屋敷の蔵に閉じ込められた彼女を救い出したとき、グスタフは痛感したのだ。ジェリコの不在に、最初に気づいたのはグスタフで、蔵の鍵がなくなっていることから彼女の居場所をつきとめたのもグスタフだった。厚い扉を開いたとたん、涙に濡れたジェリコと目が合った。立ち上がる力もない彼女にグスタフから駆け寄って力いっぱい抱きしめたとき、この子に二度とこんな怖い思いはさせないとグスタフは自分自身に誓いを立てた。夜の蔵の冷たさがその願いにどんな影響を及ぼしたものか、後日、グスタフは「氷牙」(アイスファング)の魔力に目覚めた。
「だいたい、兄貴はいつの間にジュド様に俺のことを?」
「お前がバステに向かったと聞いて、すぐに連絡を取った」
「どうやって?」
「遠距離通信用の呪言の玉だ。お前はそんなことも」
 知らないのか、と言いかけてグスタフは止めた。しかし、ジェリコは兄が飲み込んだ言葉を察した。彼女の表情から、グスタフにもそれがわかった。
 妹は、兄が告げなかった言葉を補うことができる。兄は、妹の表情から彼女の反発を読み取ることが出来る。それなのに、肝心な気持ちの根っこは少しも伝わらない。二人の間には、見えない地割れが深く長く横たわっている気がした。
「ジュド殿には、お前のことをくれぐれも頼んでおいた」
 これでは埒が明かないと、グスタフは話題をそらした。疲労の色は濃いが、こうしてジェリコが無事にいられるのは上官にあたるジュドの、しいては彼に彼女のことを頼んだ自分のおかげだとわからせようとしての言葉だった。自分ひとりで何かを成した気になるなという、戒めのつもりだった。
「大きなお世話だってんだよ」
 あくまでも上から押さえ込もうとするグスタフに、ジェリコは歪んだ笑みを見せた。愛らしさの欠片もない彼女の唇から、聞かされたのは衝撃的な事実だった。
「兄貴の口ぞえがなくても、ジュド様は俺に目をかけてくださっている。今だって特別な任務の真っ最中さ。しかも俺にしかできねぇ超重要任務だぜ」
 どういうことだ、とグスタフは色を失った。グスタフはバステの実質的な責任者であるジュドにジェリコのことを頼んだ。それは未熟な妹が最前線基地のお荷物になっては申し訳が立たないという配慮であったし、しいては彼女が暴走して取り返しのつかない怪我などしないよう、ジュドに充分に手綱を握って欲しかったからだ。それなのに、ジェリコから聞かされた話はグスタフの意図と真逆の結果をもたらしていた。
 おにいちゃまと絶対結婚する。そう泣いて譲らなかった5歳のジェリコも、ひとつふたつと歳を重ねると、兄妹で結婚はできないことを察するようになった。グスタフがその理由をきちんと説明できるころには、彼女はもう兄と結婚したいなどと言い出さなくなった。そしてグスタフ自身は15歳を過ぎたあたりから、自分が結婚して家督を継ぐ将来を意識し、自分がいなくなったあとの妹のことを強く案じるようになった。
 誰かに妹を託さなければ。しかし誰でもいいはずもない。欲を言えばきりがなかったが、最も重要なのはジェリコを大切にしてくれることだ。容姿も家柄も地位も、その問題を前にすれば塵芥も同然だった。平凡でも良い。穏やかで、誠実で、この世の誰よりも妹を慈しみ、命に代えても守ってくれるような男であれば、グスタフはいつでも厳格な兄の役目から降りるつもりだった。それまでは何としても妹を守りぬかなければ、しかし、グスタフが守ろうとすればするほど、ジェリコは進んでわが身を危険に晒した。
「<七つの大罪>の<強欲の罪>(フォックス・シン)バステ(ここ)にいるのは兄貴も知ってんだろ。俺は奴から情報を聞き出す任務を任されてるのさ」
「<七つの大罪>だと……!」
 ふざけるな、ふざけるな! グスタフは胸の内でジュドへの呪詛を吐いた。よりにもよって、リオネスで最も凶悪な大罪人のひとりに妹を近づけるとは。妹がバステについて3日間、悠長に構えていた自分自身にもグスタフは呪いの言葉を吐きつけた。荒々しい気持ちのまま、グスタフはジェリコの腕を掴んだ。
「何が何でもお前を連れて帰るぞ、ジェリコ……!」
「ふざけんなよ、足手まといだから連れ帰るっつったくせに。俺はお荷物なんかじゃねぇ、あの<不気味な牙>(ウィアードファング)にも目をかけられてる聖騎士見習いだ! 文句あっか!」
「そういう問題じゃない。お前が超重要任務だと得意がり、関わっている<強欲の罪>(フォックス・シン)がどういう存在かわかってるのか」
「そういう兄貴がアイツの何を知ってんだよ。まともに顔を見たか? 声を聞いたか? 口なんざ利いたこともねぇくせに!」
「しゃべったのか、あの大罪人と。あんな危険な男と……!」
 兄が動揺する様に、ジェリコは愉快そうに胸を張った。
「ああ、話してるぜ。それも毎晩。アイツは俺の前だとペラペラしゃべりやがるんだ。大事な情報もぜーんぶな。俺はそれをジュド様に報告する。国を守るためだからな、多少の無茶はしかたねぇよ。それが立派な騎士ってやつだろう、なぁ、兄貴」
 妹の口から聞かされる信じられない事実に、グスタフは頭が爆発しそうだった。まるで妹の純潔を<強欲の罪>(フォックス・シン)に汚されたような怒りがこみ上げた。怒りの矛先は、得意の絶頂で、自分の愚かさをまったく理解していない妹に向かった。
「この馬鹿者!」
 グスタフの手のひらが、ジェリコの頬をぶった。乾いた破裂音はグスタフの怒声とぶつかり、部屋はたちまち静寂に満ちた。
「ジェリコがひいおばあさま譲りなのは、見た目だけじゃないわね。ひいおばあさまは、それはそれは無茶をなさるお人だったの」
 グスタフは、母が語った曽祖母の話を思い出していた。自由を愛した曽祖母は、夫の母と対立した。彼女の死後は、守ってくれなかった夫とも距離をとった。彼女は夫との暮らしから逃れ、死ぬまでブリタニア各地を豪遊してまわった。
「ひいおばあさまはね、多くを望みすぎたのよ」
 母の言葉をグスタフはその通りだと思った。人にはそれぞれ、赦されるわがままの限度というものがある。例えば国王は贅沢な暮らしこそ赦されているが、国と民のために人生を捧げると言う義務が付随する。いざというときに、民を守る生贄になれない王は王ではない。
 しかしジェリコなら、母の意見にも少なすぎたのだと曽祖母の肩を持つのだろう。彼女たちがなぜそうなるのか、グスタフにはわからない。
「グスタフはジェリコをちゃんと守ってあげるのよ。そしてひいおばあさまにはわからなかったことを教えてあげなさい。ひいおじいさまの二の舞にならないように」
 いつかグスタフも、愛する女性と巡り会い結婚する。たとえそうなっても、おにいちゃまのお嫁さんになる、ずっと一緒にいたいと願ってくれたあの日のジェリコに抱いた、あたたかな気持ちをグスタフは生涯忘れないだろう。
 だからお前は自由に生きればいい。グスタフはジェリコにそう言ってやりたかった。面倒が多い貴族の家名も、いついかなる危険にさらされるかわからない聖騎士の役目も、すべて兄が負ってやる。だから曽祖母のように、わきまえもなく全てを望んではいけない。ジェリコには、ジェリコに赦されたわがままの限度があるのだから。お前は幼い頃願った、おにいちゃまのような素敵な(ひと)と出会って、幸せに生きればいいのだ。
「王都にも家にも、俺は帰らない」
 しかしグスタフがジェリコに望む幸福と、彼女自身が望む幸福はかみ合わなかった。グスタフが花を摘めと願うその手でジェリコは剣を握り、何不自由ない屋敷での生活よりも、男所帯で辛く厳しい要塞での暮らしを選ぶのだ。
「俺は<強欲の罪>(フォックス・シン)を丸裸する。そう決めたんだ」
 この世の綺麗なものだけを映してやりたかった、ジェリコの鳶色の瞳がグスタフを睨めつけた。まるでジェリコにとって一番汚らわしいものが、自分である気がしてグスタフはたまらなくなった。部屋を出ていくジェリコを、引き止める言葉をグスタフは持たない。
 どうしてこうなった。彼女を叩いた手のひらの痛みに、グスタフは顔をしかめた。



 どうしてこうなるんだろう。兄と同じことを考えていると知らぬまま、バステの廊下をジェリコはとぼとぼと歩いた。ベッドの上で膝を抱えて兄の助言を求めていたのに、いざ兄を前にすると聞きたかったはずの言葉は、ジェリコの口から出た瞬間に魔力で捻じ曲げられでもしたかと思うほど、変わり果てた姿となった。
 グスタフにぶたれたことも、ジェリコの動揺をさそった。むしろショックを通り過ぎて、今更涙も出てこなかった。
「俺は<強欲の罪>(フォックス・シン)を丸裸する。そう決めたんだ」
 欲しかった答えは得られないまま、残ったのはまたしても無謀な啖呵だった。
「だって、兄貴はわかってねぇんだ。俺のことも、バンのことも」
 バンは危険だと兄は言った。しかし獄に繋がれた彼の姿を知っているジェリコに、兄の危惧は的外れに思えた。ジェリコの知る限り、バンは、身動きひとつとれない、夜毎見せ付けられる悪夢に疲労困憊して、見ず知らずのメイドに打ち明け話をする男だった。彼の眼光にたびたび射すくめられたことを、ジェリコはとっくに忘れていた。
 彼がどんな大罪人であろうと、元を辿ればジェリコやグスタフと変わらない人間だ。惚れた女がいて、彼女を死なせたことに後悔を抱えていて、悲鳴を上げるほどの悪夢にも彼女に会えるからと耐えるほど、バンは一途で孤独で、悲しい人間だった。
「笑ってたんだよな、アイツ」
 ジェリコが、ジュドに無断で独房に忍び込んだときのことだ。口枷をされたまま眠っていたバンは、ジェリコの気配に気づいて紅い目を開いた。彼はすぐにまた眠ってしまったけれど、まぶたを下ろす前にジェリコを見てかすかに笑った。せせら笑いのようなそれは、もしかしたら彼の微笑であったかもしれない。悪夢の中の恋人と、ジェリコを重ねたのかもしれない。
「俺なら、耐えらんねぇ」
 ジェリコは恋人がいない。聖騎士を目指すのに夢中で、恋人が欲しいとも思わなかった。幼い頃に、結婚するなら兄がいいと、グスタフを困らせたのがせいぜいだった。
「おにいちゃまは、ジェリコと結婚できないんだよ」
 教え諭すグスタフの態度にジェリコは腹を立てた。ジェリコの一番はグスタフなのに、どうしてグスタフの一番にジェリコがなれないのかと、彼や両親の前で駄々をこねた。兄の気を惹きたくて、独り身の聖騎士に片っ端からプロポーズしてみたこともあった。ジェリコが聖騎士にこだわる、あれが一番最初のことだ。
 そんな幼稚な恋愛経験しかもたないジェリコにも、バンの辛さはひしひしと伝わった。悪夢でもいいから、報われなくてもいいから、会いたい、愛したい。たやすく捨てきれない恋が、他でもないバンを苦しめていた。
 ジュドの拷問は効いていた。バンの心は、これ以上ないほど弱っている。衰弱した心のまま、もっとと悪夢を望むのは自殺行為だった。
「死にたいのか」
 彼が本当に不死身(アンデッド)かどうかは問題ではなかった。彼が殺したいのは、きっと彼の心だろう。だからジュドの質問にも答えず、悪夢をせがむのだ。そんな彼から情報を引き出したいのなら、もっと別のやりようがあるはずだ。できるだけ、彼を苦しませない方法が。
 ジェリコは、自分の仮説を訴えるべく、ジュドの元へと走り出した。兄のいた部屋は、振り返らなかった。
「ジュド様、ご相談が……!」
「しばし待て。今、聖騎士長様への報告書をしたためている」
 したためると言いながら、ジュドは紙もペンも持っていなかった。机にすらつかないまま、手には小さな玉を掲げている。彼は、その玉に向かってしゃべり始めた。
「赤き魔神の屍体に関わる情報について。5年前に捕らえた<七つの大罪>がひとり<強欲の罪>(フォックス・シン)が関与していることに疑いの余地なし。かの者に聴取した概要を、聖騎士ジュドよりヘンドリクセン聖騎士長にご報告申し上げる」
 ジェリコは、ジュドが話しかけている玉がただの玉でないことに気づいた。兄の口から出た「呪言の玉」という言葉がひらめく。通信用があるのなら、記録用のものもあるのかもしれない。緊急を要したり機密性の高い情報は、こうして玉にふきこまれてやりとりされるのだろう。届け先は聖騎士長だとジュドは言ったが、現在二人体制の聖騎士長のうち、急進派のヘンドリクセン聖騎士長なのは彼の口ぶりから明らかだった。
 しかし、赤き魔神とは何だとジェリコは眉を顰めた。ジュドがバンに求めた情報は妖精王の森の大焼失にまつわるものだったはず。だがジュドが声を吹き込むことをやめたことで、真相は謎のままになった。ジュドは呪言の玉をデスクの上に転がしてジェリコを振り返った。
「この報告は未完成だ。が、完成の暁には、功労者としてお前の名を添えてやる。ともに蒼玉(サファイア)の聖騎士となり王都に凱旋しようではないか、ジェリコ。ヘンドリクセン聖騎士長は今、魔神の研究に血眼になっておられる。この報告書の出来如何で、白金(プラチナ)金剛(ダイヤモンド)も夢ではなくなるぞ」
 ジェリコの心に、いまだかつてなく強く、ジュドへの疑念が湧いた。これではまるで出世が目的ではないか。ジェリコがバンの拷問に加担する際にも、出世を餌にされた。彼女自身、蒼玉(サファイア)という将来に靡いた。だがこの非人道的な行為をジェリコが自分に納得させてこれたのは、ひとえに国家のため、聖騎士が担うべき崇高な任務だと信じようとしてきたからだ。ジェリコの葛藤と通ずるものを、ジュドから感じ取ることは不可能だった。
「お前も王都での贅沢暮らしが恋しいのではないか? 兄とともに戻らなかった心がけは殊勝だが、うかうかしているとこの小汚い要塞に骨を埋めることになりかねんぞ」
 国王直属の<暁闇の咆哮>(ドーン・ロアー)、王弟デンゼルが率いる<蒼天の六連星>。リオネス国内でも指折りの聖騎士集団に、<不気味な牙>(ウィアードファング)は階級で劣りこそすれ、リオネス王に忠誠を誓った誇り高き聖騎士たちの集まりであるはずだ。しかし、その筆頭に上げられるジュドが見せた、出世欲と欺瞞に満ちた態度はジェリコを失望させた。
 ジェリコは、眼前に立つ茨の男を見上げる。この男は、バンを出世の道具にしている。バンの過去を、彼の贖えない罪を、自分のためだけに使おうとしている。初めから、ジェリコはその手伝いをさせられてきたのだ。そんなことも気づかなかった、自分の愚かしさに反吐が出そうだ。
 俺はどうしたらいいんだ、兄貴。
 膝を抱えたベッドでの懊悩が、ジェリコの胸に再来する。ジェリコの声はグスタフに届かなかった。正しく伝えることを怠ったのはジェリコだ。兄が伸ばした手を、振り払ったのも彼女自身だった。





三日目へ  表紙に戻る  五日目へ

応援ボタンです。 web拍手 by FC2
一言で良いから感想をください同盟

スペシャルサンクス

原作1~18巻
ノベライズ『七つの願い』
ミュージカル『エリザベート』

                web用写真素材サイト/clef