五日目 約束




 エレインがくれた言葉は、今も、バンの記憶に残っていた。
「バンは人間の中じゃ、きっと強いのよね。わかるわ。でも私一人くらい、あなたのこと過保護に思ってもいいんじゃないかしら」
 妖精王の森の木の枝ですりむいて、バンが傷をこしらえたときのことだった。舐めてれば治ると意地をはるバンに、エレインはやんわりと、しかし強情に手当てほどこしながらそう言った。
 バンは、怪我をして心配されるという経験をほとんどしたことがなかった。エレインの口にした「過保護」なんて言葉は、まさに寝耳に水だった。手当てしたばかりの傷口を優しく撫でてくれる手のひらに、叫びだしたくなるような情熱が、バンの胸を満たした。幼女めいた、しかし齢1000歳の妖精族の女を、バンは眩しいものでも見るかのようにその目に映した。それが長く苦しい恋の始まりだとは、この時のバンは知らずにいた。
 たとえ生き別れることになっても、自分にとって生涯の女とは彼女のことだ。生まれて初めての恋をうまく言葉にできないまま、バンは自分の心にエレインのための場所を作った。生き別れるどころか死に別れてしまったけれど、エレインがバンの一生にひとりの女(ファム・ファタール)であることは変わらなかった。
「どうして、悪夢を受け入れるの?」
 そう尋ねたのは、若いメイドだった。独房に囚われたバンの身の回りの世話を始めた彼女とは、3日の付き合いになる。バンの血で汚れた独房の床磨きから、バンの上半身を清めることまで、彼女は実によく働いていた。そして彼女が現れてから、バンの口枷は外されていた。そのことから言って、彼女がジュドの息のかかった人間であることはわかりきっていた。
「言ったろ。アイツに会えるからさ」
「最後には殺してしまうのに? つらくないの?」
「つれぇさ。でもよ、それしか方法がねぇなら、俺は何度でもやるぜ」
「いつか慣れると思う? その、恋人を殺す夢に」
 ジュドから何をどこまで言い含められているのか、メイドの問いかけはしばしばバンの胸の核心を突いた。
「んなわきゃねぇだろ。慣れちまったら、そんときこそ俺は生きる屍ってやつだ」
 永遠の命に、憧れたころは遠い。死ねない体に、今は憎しみさえ抱いている。
「永遠の命を手にいれても、良いことなんてひとつもなかったら?」
 出逢ったころ、生命(いのち)の泉を狙うバンに、エレインはこう尋ねた。彼女から渡された問いは、歳を経るごとに重みを増していった。いつか抱えきれなくなって、バンの心は押しつぶされるに違いない。それでも、バンの肉体は生き続けるのだ。
 未来永劫に続く無為徒食は、死に続けることと同じだった。生きては死ぬ。人間には一度きりのことを、バンは無数に繰り返していた。ジュドからもたらされる拷問が、何ほどのものだというのか。しかし、若いメイドはそうは考えなかった。
「……もうやめて。こんなこと尋常じゃない。全て洗いざらい、白状して楽になって」
 何が目的かはわからないが、バンから情報を引き出す役目を負った女としては当たり前の説得だった。しかし、心もとない灯りがひとつきりの薄暗がりで、バンをひたと見つめる鳶色の眼差しには気遣いが滲んでいた。心配されている、それも過剰なほど。過保護な視線に晒されるという懐かしさに、バンは目を眇めた。エレイン以外に、そんな目で自分を見つめてくれる女がいるとは思わなかった。
「ありがとよ、嬢ちゃん。バカだって罵ってくれていいぜ。それでも俺は、アイツに会いたくて会いたくてたまんねぇんだよ」
 エレインと夢で会える。夢の終わりに、バンは彼女を殺した。生命(いのち)の泉に頭を押し込んだり、三節棍で殴りつけたり、決してそこにバンの意思はなかったけれど、バンの肉体は彼女を殺め続けた。
「夢なら、あそこにいける。アイツのいる森に」
 もっとだ。もっと悪夢を。彼女を殺す。何度も、何度も。冷たく濁った、彼女の双眸がバンを映す。そこには「死」が宿っていた。ぽっかりと空いた二つの穴に、死が(ひそ)んでいた。20年前、黒い煙がいくつもの筋となって空に立ち上る焼け跡で、息絶えた彼女のまぶたは閉ざされたままだったから。バンは、20年前見損ねた、彼女の中にある死を欲していた。
「会いてぇんだ」
 彼女を殺してでも、死が欲しかった。そのために、何度でもバンは悪夢に(もぐ)った。彼女の血で濡れた手に叫びながら、冷えていく彼女の体温に慟哭の声をあげながら、折れた彼女の首を戻そうと足掻きながら、バンは彼女の体を冒す死に触れたかった。そうやって、この肉体が失った死を取り戻したかった。それが、バンの強欲だった。
「どうして人間は強欲なのかしら」
 それもまた、バンの記憶に残る彼女の言葉だった。
 妖精王の森の7日間で、バンとエレインはよくしゃべった。朝から晩まで。エレインは他人の気配に飢えていたし、バンは自分の話を聞いてもらえることに飢えていた。そんな需要と供給は、二人の間に淡く幼い恋を芽生えさせた。齢1000歳の妖精族の姫も突き放して見ればひとりの女であり、風変わりな盗賊(バンデット)もひとりの男だった。
 そんな会話と情熱に満ちた7日間で、エレインが最も多く話題に乗せたのは兄のことだった。彼女はこの森で、700年帰らない兄を待ち続けていた。
「ひでぇ兄貴もいたもんだ」
 そうバンはエレインの兄を罵ろうとして、やめた。自分にその資格はないと思ったからだった。4歳で死んだ(キリア)の面影が、何年かぶりにバンの頭を掠めた。
「どこにでも、ひでぇ兄貴がいたもんだな」
 言おうとしていたことに、バンは少しアレンジを加えて、ひどい兄の仲間に自分を加えた。バンの言葉にエレインは返事をしなかった。彼女は心が読めたから、バンの自虐に気づいていたのかもしれない。だから黙っていてくれたのなら、彼女はできた女だった。
「嬢ちゃんにはいんのか。恋人は」
「いない」
「なら、ひとりか」
「……兄がいる」
 ここにも妹がいたかと、バンは少しだけ目を大きくした。
「兄貴が、こんな仕事をよく赦したな」
「赦してない。昨日も無理やり連れ帰らされそうになった」
 メイドの今までにない憮然とした口ぶりに、バンは自然と口角が上がった。無理やりという言い方に、甘えが見えた。何を言っても何をしても、兄に対してだけは構わないという甘えだった。キリアもよくそんな甘えを自分に向けてきた。あのエレインだって、兄について手厳しく語る口ぶりには兄妹の間にだけ赦される気安さがあった。
「いい兄貴じゃねぇか」
 バンは思ったままを口にした。彼女の顔に赤みが差した。バンを振り返った顔には、兄の肩を持つことが信じられないと書かれていた。
「危ねー大罪人の世話させられて、嬢ちゃんが心配なんだろ」
「違う。兄は私を言いなりにさせたいだけ」
「兄貴はいくつ上だ?」
「……3つ」
「体力はあんのか? 背は嬢ちゃんより高ぇか?」
「それは、もちろん。でも何の関係が」
「嬢ちゃんを思い通りにしてぇんなら、力ずくで連れ戻せばいい。そんだけ歳が離れてて、まともな力のある野郎なら簡単だろ」
 男の理不尽な暴力に、思うままにされてきた悲しい女たちをバンはたくさん知っていた。女はか弱く、守り慈しむことこそ騎士道と考える男たちと同じ数だけ、力で劣る女を虐げで平然としている男たちがいることは事実だ。前者が妻や姉妹、行きかう女性に隔たりを設けないのと同じように、メイドの兄が後者なら妹相手にも容赦しなかっただろう。
「それに嬢ちゃんは、男の力に屈する女じゃねぇよな?」
 大罪人への奉仕という屈辱的な仕事に耐え、ジュドからの指図を全うしようとする気骨は大したものだった。気丈な女だけに、彼女の兄も彼女の扱いに手を焼いているのだ。
「力でねじ伏せたところで、嬢ちゃんの心は変わらねぇ。嬢ちゃんの兄貴は、それをよくわきまえてんのさ」
 妹を理解し、尊重し、見守る。これ以上ない、できた兄貴だとバンは称えた。



 バンから、兄への意外な高評価を聞かされたジェリコは不服だった。ただ、力で人の心は変えられないという部分に、ジェリコの心は揺さぶられた。その言葉は、ジェリコとグスタフの関係を指すだけに留まらない、不思議な大きさを持っていた。
 力だけではない。金でも出世でも、人の心には決して譲れない、譲ってはいけないものがあるような気がした。曖昧模糊とした直感は、ジェリコ自身への問いかけとなって戻ってきた。このままでいいのか。ジュドの命令に従い、バンの大事なものをジュドに売って、ジュドがヘンドリクセンに媚びへつらう道具にするのを看過して、恩恵に浴することが正しいことなのだろうか。
 飽きるほど自問自答を繰り返し、兄に答えを縋ろうとした問いに、バンの言葉が道しるべとなる。長い長い夜霧の道が、ふいに晴れて月明かりが差し込んだように先が見えた。
「よし、決めた」
 ジェリコの心に呼応してか、バンから投げかけられる彼の声も明るかった。
「3日間話し相手になってもらった礼だ。今なら嬢ちゃんの聞きてぇこと、なんでも答えてやるぜ」
「ダメだ」
 バンの提案は、ジェリコがたどり着いた答えと対極にあった。
 国のため、王のため、民のため。高く掲げられた錦の御旗、人の道に外れる行為への免罪符に覆われていた、ジェリコの双眸が開かれようとしていた。
「何でだよ。それがてめぇの仕事だろ? それが目的で、ジュドに命令されてここにいんだろ?」
 バンはおおよそのことを見抜いていた。自分の語った内容が、ジュドに筒抜けになることを承知している彼に、ジェリコは激しく首を振った。
「ダメだ、ダメだダメだダメだ!」
 夢なら恋人のいる森にいけると、バンは言った。ジェリコには、その森が妖精王の森以外に考えられなかった。確証はひとつもなかった。けれどもしそうなら、ジュドの眼鏡に適う情報に、バンの恋人のことが、二人の恋が含まれてしまう。命を懸けてまで貫きたい想いを、そんな大切なものを、たやすく誰かに売り払ってはいけない。
「何も言っちゃいけないんだ。バン」
 ジェリコは今、自尊心に燃えていた。バンの心を守ることで、ジェリコは自分の尊厳を示そうとしていた。それは在りし日の曽祖母が、姑と戦い、夫を突き放してまで証明しようとしていた、彼女が彼女たる誇りと同じものだった。
「意地張ってんなよ、嬢ちゃん。こんな嫌な仕事からはさっさと足洗って、心配性な兄貴の傍にいてやれ」
 ジェリコがバンの恋を守ろうとするのと同じく、バンはジェリコとグスタフの行き違いを案じていた。<強欲の罪>(フォックス・シン)とは名ばかりの、慈愛にあふれた彼の決断にジェリコの胸が熱くなった。

 もし、こんな(ひと)が。

 それは兄以外の「男性」が、初めてジェリコの心に刻まれた瞬間だった。ジェリコはずっと、女の身が疎ましかった。男が女に見せるささいな欲や見下しが憎かった。本心では女を下に見ているくせに、中途半端なフェミニズムを振りかざす野郎は、片っ端から殴り飛ばしてやりたかった。
 バンがジェリコに見せた思いやりはあけすけで、女を男とは別に考えていても卑しい欲はカケラも覗かなかった。彼の欲や想いすべては、とっくの昔にたった一人に注がれていた。他の女に分けるものを彼は持っていなかった。そしてバンの恋情を一身に受けるその女性は、この世の人ではなかった。生と死の狭間を越えて、彼はなおも彼女を求め続けていた。途方もない一途さを、ジェリコは他に知らなかった。

 こんな(ひと)がいい。

 恋をするなら。愛し合うなら。生涯にたった一度、これほどまでに誰かと想いを通わせることができたなら、女に生まれたことをジェリコは受け入れられる気がした。兄の言う、女性としての幸福の形を、ジェリコはバンの中に見た。決して自分に向けられる激情ではないからこそ、彼の恋はジェリコの理想をくっきりと浮かび上がらせた。
「なら、願いを聞かせて」
 ジェリコは、バンの心の安寧を願った。
「俺の?」
「叶えるから。何だって、叶えてみせるから」
 バンが逃げたいと言えば、脱獄を手伝ってやる覚悟だった。恋人に会いたいなら、燃え尽きたという妖精王の森に行けばいい。そこにある彼女の名残に縋ればいい。悪夢に現れる偽者より、そちらのほうがずっといい。
「優しいねぇ」
 バンは笑う。髪と髭に覆われた微笑みは、優しくジェリコに向けられていた。ジェリコの顔も自然と綻ぶ。緊張もなく、意地でもなく、穏やかに笑ったのは久しぶりだった。
「そこまでだ」
 二人に芽生えた親密な空気に、割って入ったのはジェドだった。茨の兜が相変わらず彼の表情を覆い隠しているけれど、眼前で繰り広げられた感動的なやりとりにうんざりしているのがよくわかった。
「お前の役目は終わった」
 バンとジェリコ、どちらに向けての言葉なのかは明白だった。ジェリコはジュドを睨んだ。任務は失敗した。おそらくジュドの下に入る限り、ジェリコは出世を望めなくなるだろう。不思議と後悔はなかった。聖騎士となる前に、人として大切なものを失わずにすんだ。ジェリコは胸を張って、バンの傍から離れてジュドに向かって歩き出した。
「お前には失望した」
 ジュドの声は冷たかった。
 殺される。ジェリコはそう悟った。出世どころか、使えない聖騎士見習いの末路はこんなものだと思えば頷けた。第一、ジェリコは知りすぎてしまっていた。
「…………」
 後もう少しでジュドに触れられる近さで、ジェリコは立ち止まって彼を見た。この時、ジェリコは、自分でも驚くほど冷静に自分の死と対峙していた。ジェリコを殺した罪はバンが背負うのだろう。グスタフに、事の真相が伝わらないことが悔しかった。
「ごめんな、兄貴」
 最期まで、恥さらしな妹だったよ。
 ジュドの右腕が、ジェリコに向けて持ち上げられる。ジュドの魔力をジェリコは知らなかった。あの茨が暴れまわるなら、痛そうだ。兄の「氷牙」(アイスファング)ならそう苦しまないのに。そんなことを考えた。
 しかし、ジュドの腕はジェリコの胸より高くは上げられなかった。ジェリコは自分が大きな力に包まれていくのを感じた。同時に目の前で、ジュドが膝から崩れ落ちた。
「なっ……ん、だ……!」
 茨の兜から、ジュドの歪んだ声が漏れる。ジュドが倒れ、ジェリコが立っている。独房に残された最後の一人を、ジェリコは振り返った。薄暗がりの奥で、変わらない、磔姿のままのバンがいた。長い前髪から覗く、紅い瞳はジェリコを突き抜け、うずくまるジュドを冷たく見下ろしていた。
<強欲の罪>(フォックス・シン)……っ、きさ、ま……何を……」
 茨の兜にこもる息遣いが荒い。頭を持ち上げることも叶わず、ジュドはジェリコが磨いたばかりの独房の床に這いつくばった。彼の体を押さえつけるものは何も見えない。
 魔力。ジェリコは直感した。ジュドを支配しジェリコを守っているのは、バンの魔力に違いなかった。
「なぁ、ジュド」
 バンの声は鷹揚としているのに、ぞっとするほど冷たかった。ジェリコに死を宣告したジュドの言葉の数倍、冷たかった。
「そこの嬢ちゃんに指一本でも触れてみな。俺はもう大人しくしちゃいねぇぜ。この要塞(バステ)ごとてめぇらをぶっ潰してやる」
「い、いきがるな……<強欲の罪>(フォックス・シン)……っ、貴様に何が……、ぐ、あ、あぁ……!」
 ジュドの頭や指先がピクピクと震えだした。息も絶え絶えに足元に転がるジュドを、ジェリコもバンに倣って冷たく一瞥した。そしてバンを振り返った。守ってくれたことに礼を言おうとジェリコが口を開く前に、彼の声が耳に届いた。
「殺してくれ」
 一瞬、何のことだかわからなかった。すぐに、ジュドが闖入してくる前の話の続きだと気づいた。バンが心から叶えて欲しいとジェリコに打ち明けてくれた願いは、恋人との再会を望む気持ちに他ならなかった。
「この小娘に何ができる!」
 二人の間に、またしてもジュドが乱入した。床から頭も上げられないまま、彼は呪詛めいた悪態を吐き出した。
「ああ、殺してやる……、望みどおり、俺が! この屈辱っ、忘れんぞ……、貴様は必ず、俺が、この俺が殺してやる……! 聞いているのかっ、<強欲の罪>(フォックス・シン)!」
 ジュドの絶叫は、ハエが飛ぶ音ほどにも二人の気を惹かなかった。バンと視線を絡めて、ジェリコは力強く頷く。彼の紅い瞳が、わずかに安らいだように見えた。

 その夜、バステに急報が入った。<七つの大罪>団長メリオダスの一行が、バステ近郊のダルマリーに接近中との報せだった。





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